角南聡一郎・丸山顕誠編著『神話研究の最先端』(笠間書院 2022年)は、題名のとおり神話に関する最新研究を収録した論集である。
その第5章「神話の比較研究」の一例として収載されたのが、台湾国立政治大学日本語文学科教授の鄭家瑜(てい かゆ)氏「日台の石信仰――神話から民俗へ」である。
岩石信仰を取り上げた論文はもともと数少ないが、日本と台湾の比較で考察された論考は初めてではないか。
台湾の石信仰(本記事では以下、岩石信仰の語を用いる)を知る機会はなかなかないと思われるので、本記事では鄭氏の本論文を紹介しながら私見も述べたいと思う。
台湾の岩石信仰の事例
台湾の原住民に複数伝わる「石生始祖伝説」
台湾では現在、16部族の原住民が生活しているが、そのうち、卑南族・阿美族・雅美族(達悟族)・泰雅族などに、大きな石が割れてその部族の始祖が誕生したという伝説が広く流布している。
石頭公
宜蘭県の呉沙村・冬山郷八賀村ほか台湾各地で、大きな石をまつる廟が存在している。その石は石頭公・石公・石頭神などと呼ばれる男神であり、福徳正神・福徳爺と同一視されることもある。
所によっては、わが子を石頭公の仮の養子にすると神の加護が得られるという民俗信仰が今も続けられている。
岩石は、比較的な大きいものや、色が黄色であること、形が奇異であることなどの特徴が指摘できるようだが、すべてに共通しているわけでもなさそうだ。
石母・石母娘娘
石を仮の養母・養女として契りを結ぶ民俗信仰である。
桃園市八徳區霄裡・苗栗県・台中東勢・高雄美濃羌寮布などに石母祠・石母娘娘廟がみられ、いずれも子供の加護を願うものである。
その分布は、客家人(大陸から渡来した人々)の居住者数が多い地域であるという。
石敢當
特に彰化県・雲林県に多いという。
石敢當は中国大陸由来の信仰として知られ、魔除けや村の安寧を願うものとして建立された。
台湾でも同様の目的で建てられているが、どんな石でも良いわけではなく呪法のできる道士にお願いしないと霊験が発動しないとか、洪水が起きた時に石敢當が洪水の向きを変えて村を守ったなど、石敢當そのものに高い霊力を認めるところに特徴があるとされる。
新生児と石の風習
子供が生まれたら、1か月後に赤子の髪を剃る風習があるが、その時にお盆を供えてお盆の中に茹で卵、茹で水、銭、ネギ、小石を入れる。
また、親は親戚に赤い色を塗った卵などを贈るが、その返礼として親戚は赤い紙の上に長方形の小石をつけて赤子に贈り返す。
日台の岩石信仰の異同点
鄭氏は、台湾と日本のそれぞれの岩石信仰を比較し、次のようにまとめている。
- 台湾・日本は共に、石を神や魂の入れ物としてまつることがある。
- 台湾・日本は共に、石が魂を鎮めるものとして用いることがある。
- 台湾・日本は共に、石敢當の信仰がある。
- 台湾・日本は共に、形や色が特殊なものを信仰の対象とすることがある。
- 日本は、入れ物、鎮魂、境界線としての石の信仰は多いが、子どもの守護神としての信仰は台湾に比べると日本は少ない。
- 台湾には、人間が石から生まれた石生始祖伝説が多くみられるが、それに比べて日本は皆無というわけではないが、間接的に石と人間の誕生を示唆する程度にとどまる。
- 石敢當は、日本では村の内外の区切りを重視する境界線としての機能が色濃いが、台湾では自然災害や災厄を防止する霊験の機能が色濃い。
それぞれの指摘は、台湾との比較という点でも従来なされることがなかったものであり、特に台湾では石を人格化する事例の多さや、養父・養母・養子関係の契約を結ぶ子供の守護神としての性格や始祖神としての石など、石と親子関係に関する特徴の強さは肯定できるだろう。日本の岩石信仰の独自的なものと普遍的なものを考えるうえでも傾聴すべき点が多い。
一方で、主に日本列島の岩石信仰を調べてきた私からみると、本論文に記されていないことで情報提供したいことや、考察に対する疑問点もいくつか抱いたため、いつかこの記事が鄭氏の目にとどまることを期待して記しておきたい。
日本神話にまつわる岩石の事例について
鄭氏は「石にまつわる日本の神話・伝説といえば、まず、黄泉国訪問神話に記されている『千引石』が思い出されよう」(p.338)と述べるが、まず、この前提が正しいかというところにひっかかりがある。
僭越ながら、私は2022年夏に論文「『古事記』『日本書紀』『風土記』は岩石をどう記したか―奈良時代以前の岩石信仰と祭祀遺跡研究に資するために―」(『地質と文化』第5巻第1号)を発表しており、併せて『記紀』『風土記』に登場する岩石の記述をデータ公開している。
詳しくは上記リンク先をご覧いただきたいが、一読すると千引石の記述はあくまでも数ある神話(記紀神話としての)の中の一つであることがわかると思う。
千引石はあくまでも関係者の人口に膾炙しているというだけで、資料としては知名度の軽重は本来度外視すべきで、千引石以外の岩石の記述にも目を向けたうえで日本神話と岩石の関係をまとめることが望ましいだろう。
鄭氏は千引石の例から「境界線」の性格、神功皇后鎮懐石の例から「鎮魂」の性格、天之日矛伝説の例から「玉=魂としての石」の性格を抽出して、それらを日本の岩石信仰の特徴とみなして論じている。
しかし昨年の拙稿で明らかにしたように、『記紀』『風土記』に表れる岩石信仰の姿はさらに多様であり、それらを「境界性」「忌避性」「生死性」「堅固性」「移動性」「永遠性」「非実用性」という7種類の精神性で提示した。
事例数の多い「境界性」「忌避性」「生死性」については鄭氏論文で触れられているが、事例数の少ない「堅固性」「移動性」「永遠性」「非実用性」については言及されておらず、この点において日本神話の岩石信仰を論ずるには抜け漏れが認められる。
日本には~が多い、~が少ないと論ずるには、明確な事例数などの数値化したデータが求められ、そのデータを作る中できっと他の性格・機能が見つかるはずである。
石を神としてまつることと、石を魂の入れ物としてまつることは同じか
鄭氏は日台の岩石信仰の共通点として、「石は神として祭られている。つまり、石は神の入れ物・乗り物なのである。それと同時に、魂の入れ物でもあり、『石=魂』という信仰がある。」(p.351)と述べている。
これは、折口信夫の「たま」論を引用していることに立脚しており、木・竹・卵など硬いものの中に空洞がある存在と同様、石に魂が出入りすると信じられていたという折口の着想を背景としている。
問題提起したいのは、石に魂が出入りすることと、石が魂である、石が神であるという論理には飛躍があるのではないかということである。
卵を例にするなら、卵において魂の部分は中の黄身にあり、外側の殻ではない。卵と石を同一視するなら、外側の固い石の部分は魂ではないことになる。卵と石が完全同一ではない存在だからこそ、台湾の新生児に対する風習においても、卵と別で石も供えられているのではないか。石には石の、別の機能があるように思われる。
そして、仮に石の内部という「見えない部分」にこそ魂があるのなら、それは、岩石という見えている部分から端を発する岩石信仰とは、また別種のものだろう。
視覚的には同じ岩石信仰でも、岩石そのものを神とする石神と、岩石の内部の不可視の形而上的存在に神を見出す「入れ物・乗り物」は別概念として取り扱った方が厳密である。
この問題については、昨年の拙稿でも触れているが、それより前に2011年の拙著『岩石を信仰していた日本人』(遊タイム出版)においても「岩石祭祀の機能分類」として切り分けて分類している。
「岩石祭祀の機能分類」には、鄭氏が論じた「入れ物(拙分類ではBA類型に該当)」「鎮魂(拙分類BBB類型)」「境界線(拙分類BC類型)」以外にも、多数の機能を提示している。これらの言及されなかった機能にも広げて日台の事例を分析していただけると、また異なる結論が導き出される可能性がある。
残念ながら、鄭氏論文には拙著が参考文献として挙げられておらず私の研究の知名度不足を悔やむしかないが、この機会にインターネット上で書評を掲載しておき後考に供したい。
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