鹿児島県姶良市蒲生町下久徳
岩壁の下部には岩穴も複数存在する。 |
岩穴内部。石が敷き詰められている。 |
岩壁の下部には岩穴も複数存在する。 |
岩穴内部。石が敷き詰められている。 |
磯石(写真左の岩塊) |
磯石(探訪時は池の水が抜かれていた) |
現地の受付の方から見せていただいた磯石の報告書の図面 |
後楽園の大立石なんか有名です。https://t.co/Ge5I1CIRNw
— 奇岩巨石磐座ニュース (@stonenews) December 19, 2022
なるほど。
— 奇岩巨石磐座ニュース (@stonenews) December 19, 2022
その他の事例だとこのくらいしか知らないです。
旧野崎家住宅https://t.co/E5cfvyovpp
遠方の巨石を求めて自らの庭園に引き入れ、そのために岩肌を毀損することを厭わず、見た目は元通りにならなくてもできるかぎり原形の形状に戻そうとした心の流れが何だったのか興味深い。
磯石の場合は、巨石の頂面に柱穴が確認されている。
そのことから、この柱穴は鳥居や祠を建てた跡ではないかとする説があるが、そうすると磯石は単なる岩礁ではなく聖地をまつった場所の基盤となった岩石だったことになる。
磯石の頂面 |
隼人歴史民俗資料館展示の「田の神像」(写真左右) |
タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。
松田誠氏「田の神さぁの祈り―霧島市のタノカンサァ―」(『霧島市の田のかんさぁ』鹿児島県霧島市教育委員会、2010年)によると、18世紀代から薩摩藩の関与のもと藩内に普及したものと考えられている。
田の神の像容は統一的ではなく、特に初期は仏像・神像・神職・僧などのバリエーションに富み、造立者の希望にある程度委ねられていたらしい。
松田氏によると、薩摩藩としては勧農の目的で田の神の造立を薦めたというが、初期のタノカンサァは造立目的も五穀豊穣などの農業関係に限らず、設置場所も田んぼだけでなく山地・平野部など一定した傾向を持たなかったとされる。
最終的には神名のあらわすとおり田の収穫を祈るための神像ばかりとなっていくが、出発地点は必ずしも田の信仰だけではなかった様子がうかがわれる。
タノカンサァは庚申などの他の信仰とも混ざって造立されているものがあり、中には陽石の輪郭にもみえることから生殖器信仰との関連で説かれることもあるという。
ただし、松田氏は「そのものズバリ」という形は認められないということから、「作為はないと見たい」と結論づけている。
冒頭に掲げた写真のとおり、タノカンサァには白く化粧を施したものと、石肌のままでまつったものがある。岩石信仰の観点からみれば、前者は岩石の物質性を第一とはしておらず、後者は岩石の視覚性が優先されている。
同様に、タノカンサァには一か所に安置するタイプと、年ごとに地区で家々を持ち回りして運びまつるタイプがある。
後者は持ち運びできるサイズということになるが、それでも持ち運ぶために小型化するというわけではなく、運搬には難儀する例が多かったという。
鹿児島県でタノカンサァのことをご教示いただいた窪壮一朗氏からは、「なぜ人々は、運搬に必ずしも適さない重い石材で、わざわざタノカンサァを作ったのか」と疑問を投げかけられた。
そこに、岩石でなければならない精神的な要因があったかもしれないが、私にはまだわからない。
運搬していた当事者の方々も、特に時代が下れば下るほど「昔からしていることだから」というところが実際のところで、言語化できていなかったことが多かったと思う。
苦労して望みをかなえること、思い通りにいかず岩石に抵抗されながら祭祀行為をおこなうというところに、岩石ならではの信仰要因は一般化できる余地はあるが、自らの家に石像を持ち込んでまつろうとした最初期の人々にしかわからない価値観かもしれない。
据石ヶ丘遺跡は縄文時代の遺跡ということだが、鹿児島県教育委員会編『鹿児島県文化財調査報告書 第11集 別冊』(1964年)によると、据石ヶ岡から縄文時代早期の押型文土器が見つかっているとある。これのことを指すだろうか。
地名としては、据石ヶ丘、据石ヶ岡、据石岡などの表記の揺れがあるが、この丘陵をそう呼ぶ理由が頂上の岩石群にあることはたしかなようだ。石を据えたような高さ1.8mの構造物があり、据石の名にふさわしい。
周辺には小ぶりの岩石が散在しているが、これが環状列石と言えるかというと、いわゆる縄文時代の配石遺構にみられるような石を敷き詰めて並べた様相とは異なり、石と石の間の隙間はかなり粗い。
仮に人工的としても、このような目立つ位置に露出した運搬可能な岩石が、縄文時代から手つかずのまま今に至るとは希望的観測に過ぎるだろう。
さらに、土器は見つかっているが発見位置は不明で、岩石の配置が考古学的に調査された様子でもない(調査時の記録を探している)。
現地看板は「縄文時代以降の古代人が~」と断定的に記すが、土器の発見という事実と、据石が縄文時代の遺構であるかを直結するのは論理が飛躍している。
柚木英一「道で出会った石の神」(『鹿児島民俗』78号、1983年)には「据石岡」と紹介されて、「この巨石も古くから神として崇められた石である」と記されるが、それ以上の具体的な伝説・記録は見当たらない。