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2023年4月23日日曜日

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟(鹿児島県姶良市)


鹿児島県姶良市蒲生町下久徳




山腹に露出した一大岩壁に、約1700ともいわれる梵字が刻まれた場所。日本最多の刻字数ともいわれる。

刻まれた梵字の特徴としては、本来の字体に忠実ではなく、まるで人のような図像に字を擬人化している。

不動明王を表す「カン」を人物化した彫刻。向かって左に剣も持っている。

岩肌は平滑というわけではなく凹凸も多く、そのような彫りにくい場所や、下から仰ぐだけでは見えにくいような場所にも文字が刻まれている。


鹿児島の摩崖仏には、このような屏風状の岩肌に刻まれる事例が複数見られるという。

この梵字群が成立した時期は確定していないようで、一説では鎌倉時代中期、またはそれ以前とも考えられている。
一時期に一気に同一人物・集団によって成立したものか、後代にその意思を受け継いで継続的に足されていったものか、無関係の人々が影響や触発を受けて増殖していったものか、このあたりも不明な点が多い。

この岩肌を越えて山頂に到ると、そこには蒲生城(竜ヶ城)跡が残る。
当地を治めた蒲生氏が12世紀ごろに築城したとされており、そうすると城として機能していた時期と梵字が刻まれた時期は重なる可能性もある。

個人的には、この梵字が刻まれる前の自然の岩肌だった時の人々の認識にも興味が惹かれる。

岩壁の下部には岩穴も複数存在する。

岩穴内部。石が敷き詰められている。



2023年4月20日木曜日

旧島津氏玉里邸庭園の磯石(鹿児島県鹿児島市)


鹿児島県鹿児島市玉里町


島津藩主・島津斉興が天保6年(1835年)に築いた玉里邸の庭園。

庭園の庭石の一つに「磯石」と呼ばれる巨石がある。

下写真のとおり、一箇の岩塊を細かく切断して、そのつぎはぎを再び接合したものとなっている。内部に隠れているものも含めて53〜58個の石片に分割されている。

磯石(写真左の岩塊)

磯石(探訪時は池の水が抜かれていた)

現地の受付の方から見せていただいた磯石の報告書の図面

幅、奥行き約3.5m、高さ約3mの立方体に近い形状で、元々は鹿児島湾の磯海岸の海中にあった自然岩を庭園に運ぶために分割したものだといわれている。

このような方法の岩石運搬は、岡山県岡山市の後楽園で備前池田藩が築庭した「大立石」や、同県倉敷市の旧野﨑家庭園の「陽石」に類例があることを奇岩巨石磐座ニュースさんに教えていただいた。


後楽園は元禄13年(1700年)の成立、旧野﨑家庭園は江戸末期の19世紀中頃の成立とされているので、旧島津氏玉里邸庭園の磯石は旧野﨑家庭園とほぼ同時期か少し先行し、後楽園がこの類型の手始めだったことがわかる。

遠方の巨石を求めて自らの庭園に引き入れ、そのために岩肌を毀損することを厭わず、見た目は元通りにならなくてもできるかぎり原形の形状に戻そうとした心の流れが何だったのか興味深い。


磯石の場合は、巨石の頂面に柱穴が確認されている。
そのことから、この柱穴は鳥居や祠を建てた跡ではないかとする説があるが、そうすると磯石は単なる岩礁ではなく聖地をまつった場所の基盤となった岩石だったことになる。

磯石の頂面


2023年4月17日月曜日

龍宮の亀石(鹿児島県霧島市)


鹿児島県霧島市隼人町内 

龍宮の亀石

鹿児島神宮境内にある。
パワースポットとして取り上げられることもあるようだが、詳しい沿革は情報収集できていない。



雨の社と車祓所の間には、このような露岩も残っている。

2023年4月16日日曜日

薩摩の「タノカンサァ/田のかんさぁ/田の神様」

隼人歴史民俗資料館展示の「田の神像」(写真左右)

タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。


松田誠氏「田の神さぁの祈り―霧島市のタノカンサァ―」(『霧島市の田のかんさぁ』鹿児島県霧島市教育委員会、2010年)によると、18世紀代から薩摩藩の関与のもと藩内に普及したものと考えられている。

田の神の像容は統一的ではなく、特に初期は仏像・神像・神職・僧などのバリエーションに富み、造立者の希望にある程度委ねられていたらしい。

松田氏によると、薩摩藩としては勧農の目的で田の神の造立を薦めたというが、初期のタノカンサァは造立目的も五穀豊穣などの農業関係に限らず、設置場所も田んぼだけでなく山地・平野部など一定した傾向を持たなかったとされる。

最終的には神名のあらわすとおり田の収穫を祈るための神像ばかりとなっていくが、出発地点は必ずしも田の信仰だけではなかった様子がうかがわれる。


タノカンサァは庚申などの他の信仰とも混ざって造立されているものがあり、中には陽石の輪郭にもみえることから生殖器信仰との関連で説かれることもあるという。

ただし、松田氏は「そのものズバリ」という形は認められないということから、「作為はないと見たい」と結論づけている。


冒頭に掲げた写真のとおり、タノカンサァには白く化粧を施したものと、石肌のままでまつったものがある。岩石信仰の観点からみれば、前者は岩石の物質性を第一とはしておらず、後者は岩石の視覚性が優先されている。

同様に、タノカンサァには一か所に安置するタイプと、年ごとに地区で家々を持ち回りして運びまつるタイプがある。

後者は持ち運びできるサイズということになるが、それでも持ち運ぶために小型化するというわけではなく、運搬には難儀する例が多かったという。


鹿児島県でタノカンサァのことをご教示いただいた窪壮一朗氏からは、「なぜ人々は、運搬に必ずしも適さない重い石材で、わざわざタノカンサァを作ったのか」と疑問を投げかけられた。

そこに、岩石でなければならない精神的な要因があったかもしれないが、私にはまだわからない。

運搬していた当事者の方々も、特に時代が下れば下るほど「昔からしていることだから」というところが実際のところで、言語化できていなかったことが多かったと思う。

苦労して望みをかなえること、思い通りにいかず岩石に抵抗されながら祭祀行為をおこなうというところに、岩石ならではの信仰要因は一般化できる余地はあるが、自らの家に石像を持ち込んでまつろうとした最初期の人々にしかわからない価値観かもしれない。


2023年4月9日日曜日

据石ヶ丘遺跡(鹿児島県霧島市)


鹿児島県霧島市溝辺町竹子


据石ヶ丘遺跡は縄文時代の遺跡ということだが、鹿児島県教育委員会編『鹿児島県文化財調査報告書 第11集 別冊』(1964年)によると、据石ヶ岡から縄文時代早期の押型文土器が見つかっているとある。これのことを指すだろうか。

地名としては、据石ヶ丘、据石ヶ岡、据石岡などの表記の揺れがあるが、この丘陵をそう呼ぶ理由が頂上の岩石群にあることはたしかなようだ。石を据えたような高さ1.8mの構造物があり、据石の名にふさわしい。






周辺には小ぶりの岩石が散在しているが、これが環状列石と言えるかというと、いわゆる縄文時代の配石遺構にみられるような石を敷き詰めて並べた様相とは異なり、石と石の間の隙間はかなり粗い。

仮に人工的としても、このような目立つ位置に露出した運搬可能な岩石が、縄文時代から手つかずのまま今に至るとは希望的観測に過ぎるだろう。

さらに、土器は見つかっているが発見位置は不明で、岩石の配置が考古学的に調査された様子でもない(調査時の記録を探している)。

現地看板は「縄文時代以降の古代人が~」と断定的に記すが、土器の発見という事実と、据石が縄文時代の遺構であるかを直結するのは論理が飛躍している。


柚木英一「道で出会った石の神」(『鹿児島民俗』78号、1983年)には「据石岡」と紹介されて、「この巨石も古くから神として崇められた石である」と記されるが、それ以上の具体的な伝説・記録は見当たらない。