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2023年5月22日月曜日

間々観音の観音洞の七つ石(愛知県小牧市)

愛知県小牧市 小牧山(標高86m) 西側山腹


「小牧なる 飛車の猟人 八つある鹿を 七ついしかな」(間々観音掲示より)

この七つ石については、当ブログの前身となった「岩石祭祀学提唱地」の掲示板でかつてしばらく追い続けた存在だった。

情報提供と問題提起をされたのは投稿者のチェリーさんで、関係する投稿を時系列で紹介すると次のとおりである。


過去の情報収集まとめ


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 1日(月)00時50分0秒

小牧市教育委員会発行の小牧叢書16「小牧山城」が少し触れています。(略)「十七世紀中期、尾張初代藩主義直の最晩年の頃に側室貞松院の御賄頭になった津田房勝が記した「正事記」の拾遺のはじめに「七ツ石、五本松とて、名石、名木たり、人かけ松といふも五本の内なり」という文章が残る。しかし、これらの巨石が七ツ石と関連があるのかどうかは謎である。」と書いてありました。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 2月 2日(火)00時12分54秒

名石と呼ばれる七ツ石ですが、小牧町役場が昭和3年に編纂した『小牧と史蹟』(第二版)によれば、「(小牧)山の西腹に観音洞あり。此所は霊仏授乳観是音菩薩の霊現地と伝へらる、時は明応元年三月十八日狩人の矢面に立って霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」との記述があります。
私はこの観音洞七ッ岩がくだんの七ツ石のことなのではないかと思います。

投稿者:チェリー 投稿日:2010年 2月 7日(日)03時28分5秒

 間々観音は小牧山の西北、国道155線を渡って少し入ったところにあります。金曜日は遅番でしたので、午前中の僅かな時間でしたが、行ってみました。山門をくぐると右手に手水所があります(略)。観音洞の碑に間々乳観音とあるとおり、ここはお乳のお寺なのです。中の写真が観音堂です。御本尊は千手観世音菩薩です。観音堂に七ツ石の絵が掛けてありました(下の写真)。


 受付の上品な女性に伺ったところでは、猟師が八頭の鹿を七頭まで射止めたところ、七つの石になった。八頭目を射止めたところ、観音様が現れたとのことです。観音洞には七ツ石は、もうないかもしれませんと言っておられました。(観音洞から移ったのは信長の指示ですか?との問いに、「そうです。でも歴史的な事はあまり詳しくなくて」と、丁寧に答えていただきました。)

 改めて小牧山の中腹にある観音洞に登ってみましたところ、ちゃんと説明板がありました。「明応の頃。乳の出ない妻に食わせようと、子孕み鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、七匹の小鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、小鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び観音様をねんごろに祭った。後に観音を祭る草庵は間々に乳観音として移転したが、草庵の跡地は観音洞と呼び親しまれ現在に至っている。」
 さて、小牧叢書16「小牧山城」では、狩人が矢を射て仕留めた鹿は八つの大きな石になり、その上に光がさして観音様が現れた(小牧市歴史館より)となっています。(小牧市歴史館は現在の小牧山城)石の数に混乱が見られるのは何よりもこの観音洞の地にその石がないからだと思います。江戸時代の初期に名石と言われた、鹿位の大きさの石が、やはり、一つも見あたりませんでした。いろんなサイトを見ると、観音様の移設を命じたのは信長のようです。でも、江戸時代初期に七ツ石として知られているのですから、石そのものは残っていたはずです。では、それ以降に石はすべて移されたのでしょうか。間々観音の境内にはそれらしき石はありませんでした。でも(ライン関係でよくわかるのですが)事の他「場所」を重要視する徳川家がおいそれと大切な石を移動するとは考え難いです。それに、間々観音の山門は徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたそうで、敬意をはらわれていたのだと思います。
 もうひとつの可能性は、観音様があった七ツ石の場所が、ここではないということです。小牧山の山中のどこかに眠っているのかもしれないと思ってみたりするのですが、今回はここまででございます。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 2月 7日(日)20時59分17秒

「七」「八」という数字も神秘性や数の多さの形容として付く場合が多いですので、江戸時代においても「コレとソレと・・・アレで7個だ(or8個だ)」という厳密な個数確認はしていなかったかもしれません。
この前チェリーさんが掲載された観音堂の写真がありましたが、あの岩盤とごろごろ転がる礫石の総称が七ッ石(七ッ岩)の可能性もあると思います。
江戸時代には岩盤がもっとモリモリしていて、礫石も大きいのがあったのかもしれません。それが時代を経て人に触られて摩滅したり、ご利益があるとかで切り欠けされたり、持ってかれたりして今のような状態になったと・・・。
東京葛飾の立石や埼玉県美里町のこぶ石などは人に触られたりお守りとして石の破片を持ってかれたりで、往時とは想像もつかぬ小ささになってしまったという話があるので、これも可能性の1つに入れてあげてください。


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 5月17日(月)01時37分58秒

 機会がある度に「七つ石」を追っていますが、手掛かりがつかめません。図書館で調べても頼りになるのは結局「小牧叢書」になり、1.「こまき昔話」では、「現存していないしその位置もさだかではありません。ただ七ツ石の残骸めくものが歴史館の建てられる以前は、頂上から南へ下るところに残っていました。鳥居龍蔵博士がストーンサークルのメンヒルだろうと言って居られたものが、それらしゅう思われます。」とあります。観音洞と関係なくなっちゃう。11.「小牧のむかしむかし」(だと思いましたが)には移された先の「間々観音」について、夫をなくし赤ん坊を抱えた母親が、村の衆に届けてもらったお米を観音様に捧げたところ、乳が出るようになった。この話がまわりの村々まで広がって、間々の乳観音と呼ばれるようになった。という話が載っていました(原典 小牧町史)。間々観音とも関係なくなっちゃう。
 小牧歴史館(小牧城)を訪れた時に、日曜日ということもあって、ちょうど学芸員の方がみえましたので伺ってみたのですが、やはり七つ石は見当たらない、観音洞の岩盤は違うと思うとのことでした。
 調べれば調べるほど、希薄になってしまいます。一体、射られた鹿が変化した石はどこにあるのでしょうか。その現場はどこなのでしょうか。と、そこで思ったのですが、考えてみると鹿が石に変わることが、実際にあるのでしょうか。


投稿者:MURY 投稿日:2010年 5月22日(土)23時00分17秒

動物の石化については、東日本でこんな事例がありました。

牛石(岩手県遠野市)姥の乗っていた牛が姥もろとも一緒に石化。
猫石(山形県東田川郡朝日町)言葉を話す猫が石化。
牛石(福島県二本松市)霞ヶ城築城の際、生贄として埋めた2頭の神牛が石化。
殺生石(福島県白河市)石化した九尾が飛び散った石片。
牛石(群馬県伊勢崎市)源義経が連れていた牛が洪水によって水死してしまい、それが石化。
殺生石(栃木県黒磯市 那須本温泉郷)九尾が石化。
亀岩(埼玉県飯能市)弁天が乗っていた亀が石化。
狸和尚の人面石(神奈川県相模原市)和尚に化けていた狸が首を切られ、首が石化。
猫岩(新潟県魚沼市)悪行を働いていた猫又が、神によって石化。


動物以外にも、人間や鏡・つづらなどの物品も石化してます。鹿はパット見ありませんでした。
実際石化はしないと思うのですが、これが象徴(何かの形容・比喩)かどうかは分かりません。私自身は石化の意味をまだ追いきれてないのが正直なところです。むしろ、その意味をつかむために事例をえんえんと集めることにします。
私も何か思いついたらまた投稿します。


投稿者:チェリー 投稿日:2010年 6月14日(月)00時01分22秒

 七つ石 は信長が観音様を小牧山からおろした後も、残っていたと思います。徳川政権になって尾張徳川家が小牧山を立入禁止にした後、「正事記」に七つ石の記述があるからです。それが今は見当たらない。徳川家が管理している間に無くなっちゃった可能性が高いんじゃないかなぁ。何かに使っちゃったというんではなくて、大切に移動したという気がしてなりません。

――――――

以上、掲示板過去ログより転載。


観音洞の現況

先の投稿からわかるのは、間々観音の創建にまつわる岩石でありながら、間々観音の方でも小牧山城の施設の方でも、はっきりとした確認がとれていないために統一見解が定まっていないということである。

掲示板の投稿から10年が経過して、遅ればせながら小牧山の観音洞(かんのんぼら)の現地を訪れることができた。

観音洞。「間々乳観音出現霊場」の石碑が岩盤上に建つ。

逆方向から撮影。目視した範囲ではここにしか露岩は見当たらない。

岩盤の近接写真。

現地にはここが観音洞であることを示す看板も建つ。


七つ石の位置確定

観音洞の岩盤が七つ石なのか、現地には明示されていない。

ただし、渋谷吾往斎(編)『我が郷土の史蹟と伝説』上巻(聚文館 1926年)という文献に、「小牧山の西に面した観音洞といふのがあつて、そこには七つの石が古い昔からの傳説を物語つている。」との記述は確認した。

私自身も、2010年の投稿時に『小牧と史蹟』の「霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」の記述を見つけており、このことを加えると少なくとも七つ石が観音洞に位置するということは間違いないと言って良いだろう。

したがって、観音洞懐疑説を採る「こまき昔話」「小牧歴史館」は文献調査不足による見解と判断できる。


中井均氏は、観音洞の岩盤を小牧山城築城の理由の一つと絡めて次のとおり取り上げている。

「この山は間々観音出現の地でもある。本丸の西方に伸びる尾根の頂部はチャートの岩盤が露頭しており、そこに観音が降臨したと伝えられており、間々観音出現之地の石碑が建立されている。小牧山城は信長の美濃攻略の拠点として構えられた城郭ではあるが、それを信仰の山に選んだのである。その観音降臨の山に巨石を用いた石垣を築くことが重要だったのである。」(中井均「守護・戦国大名の居城と聖地」『中世学研究3 城と聖地―信仰の場の政治性―』高志書院 2020年)

現今の研究において、観音洞の岩盤は城郭と聖地という観点からも注目されていると言える。


観音洞の岩盤が七つ石か

残る課題は、この岩盤が七つ石なのか違うのかという点であるが、その間の可能性として、この岩盤が元来の七つ石と景観が異なることについても想定しなければならない。

あくまでも伝承上の流れではあるが、間々観音創建となる観音出現縁起が明応元年(1492年)であり、小牧山城は永禄6年(1563年)である。寺院の歴史の上に城郭の歴史が上書きされている。


七つ石がどのような理由で「七」を冠したかは(伝承の理屈を抜きにすると)不明だが、七を想起させる岩石の形状だったとしても、地表に露出したそのような岩石が現在にいたるまで原形のまま継続できた保証はない。

実際、間々観音は小牧山から移転して、小牧山城の諸施設でさえも発掘をして初めて土の中から出てくるように、山地における景観が過去と現在で同じであることはむしろ少ない。

七つ石の岩盤が人為的に削られたかどうかはわからないが、岩肌はそれぞれ角が丸まって摩耗の様子がうかがわれ、接する地面も礫混じりで土に半ば埋まった微高地となっている。

岩盤の露出具合も年代によって異なっていたのではないかと思われ、現状の岩石の姿を以てこれが七つ石たりうるのかなどを印象論だけで論議するのは避けた方が良いだろう。


以上の情報を踏まえて、私は観音洞の岩盤を「現在の景観にかかわらず、じゅうぶん七つ石たりえた」と判断する。


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