2023年6月4日日曜日

勝尾寺の八天石蔵からみる「イワクラ」「イシクラ」の諸問題(大阪府箕面市)


大阪府箕面市 勝尾寺一帯

 

八天石蔵の由来

勝運祈願の勝ちダルマで有名な勝尾寺に、八天石蔵(はってんいしぐら)と呼ばれる石積施設がある。

八天石蔵とは何か。『箕面市史』から引用する。

「寛喜二年(筆者注:1230年)正月の四至注文に『四角四天王石蔵』と呼ばれた石蔵が、勝尾寺の開基と伝えられる開成皇子の結界に際して設けられ、その後に八天之石蔵がつくられたと解することができる。(略)勝尾寺のまわり八ヵ所に八天之形像が埋められ、その上に石を畳んで壇を築いた、いわゆる『八天之石蔵』のあったこと、そしてそれが勝尾寺領の境界を示す牓示であったことを知ることができる。」

箕面市史編集委員会 編『箕面市史』第1巻 (本編),箕面市,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008156 (参照 2023-06-04)

八天石蔵の一つ「持国天王石蔵」

八天石蔵のなかでは、東の境界に建つ石蔵である(冒頭GoogleMap参照)

現地看板

持国天王石蔵には、勝尾寺園地の駐車場から案内標識が出ている。
(勝尾寺園地は無料駐車場であり、勝尾寺参拝時にも有用である)

すなわち、八天石蔵とは寺の領域を示すために置いた施設である。

寺社の四至(東西南北)の領域を確定するために牓示の石柱が建てられた例は各地にみられるが、八天石蔵の特異な点は牓示が石柱ではなく3段からなる石壇を構築し、さらにその下に八天(四天王・四明王)の仏像を壺に入れて埋納したというところにある。

単なる境界標示の目的にとどまらず、それぞれが仏を宿す結界という意味も込められ、その名を「石蔵」と呼んだのである。


このような施設の類例はほとんどないとされており、規模・時代が違ってもいいなら岡山県赤磐市の熊山遺跡や奈良県奈良市の頭塔(ずとう)が僅かながら類似形態として挙げられるだろうか。いずれも広くとらえて仏塔の範疇で考えることはできる。

しかし、頭塔については見た目こそ石の塔の趣だが、実質は盛り土の表面に石を葺いたものであり、どちらかというと古墳の造り方に近い。どちらかといえば、熊山遺跡のように総石造りの壇状施設の文脈でとらえたほうがよさそうだ。

(熊山遺跡の石壇が、熊山山頂の露岩上に構築されているのも、岩石信仰の観点からは注目できる。ただし熊山の露岩が即・磐座と呼ばれるような祭祀対象だったかは即断できない)


考古学者の狭川真一氏がweb上で報告した「瀬戸内周辺における古代仏塔の研究-経納遺跡の研究を中心に-」によると、八天石蔵・熊山遺跡と比較に足る事例として兵庫県佐用町の経納遺跡を取り上げている。こちらも3段からなる石壇遺構であり熊山遺跡と同時期・同時期の可能性が示唆されている。


なお、勝尾寺境内の三宝荒神社(荒神堂)の裏手に「八天要石」または「影向石」と呼ばれる八角柱の石柱があり、石柱下には不動明王像が埋まっているという逸話もあるようで、これも伝承上では石蔵と同機能と言える。

立地的には勝尾寺境内ということで石蔵の中枢的役割を担うかのようだが、埋納されるのが不動明王であるなら冒頭前掲書のとおり、八天石蔵において当初設けられたのは「天王」であり「明王」は後出するため、八角柱という形態も考えあわせて石蔵成立後の聖跡かもしれない。

三宝荒神社。探訪時、八天要石を知らず残念ながら見過ごした。


石蔵と経塚の異同点

積み石の下に仏を埋納したという石蔵の祭祀に近いものとしては、経文を筒などの容器に入れてそれを積み石で覆った経塚が想起される。

経塚については、末法思想に伴い経文を未来に保存するために構築されたもの、そこから派生して作善のために構築されたことが多く、石蔵の牓示の機能からは少し性格が離れたもののようにも思える。

しかし岩石信仰の観点に立つと、自然石信仰の地を後世に経塚として用いた事例が知られており、静岡県浜松市の渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)、三重県桑名市の多度経塚、三重県伊賀市の猪田経塚、京都府宮津市の真名井神社経塚などを挙げることができる。

最前者の渭伊神社境内遺跡は古墳時代の祭祀遺物群が見つかった巨岩群をそのまま経塚として利用している。他の例も多度大社・猪田神社・真名井神社いずれも延喜式内社クラスの古社であり、それらの神社が神聖視する自然岩群の近くに経塚を設けている。

このように、まずは神祭りの場がありそこに経塚の機能を追加したと考えることができる。経塚も単に単独で成立した存在ではなく、それ以前からの祭祀や聖地の影響を受けたうえで複合する場合がある。


石蔵と岩倉 ~京都四岩倉との比較~

八天石蔵の石蔵は「イシグラ」「イシクラ」と読むが、石蔵を「イワクラ」と呼ぶ例もある。そうすると、石蔵も自然石信仰のいわゆる「磐座」などと無関係ではなくなってくる。

その一例として、経塚と石蔵の牓示の関係でも思い起こされるのが、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納したとされる「四岩倉」伝説である。

これは桓武天皇の同時代文献に明記された事跡ではないが、少なくとも『雍州府志』(1682~1686年成立)、『京羽二重織留』(1685年成立)までは本伝説の記述を認めることができる。

それ以前の文献に本伝説の記述を見つけることがまだできていないが、伝説を抜きにして四岩倉の名称自体はさらに古く遡ることができる。たとえば北岩倉は『日本三代実録』(901年成立)において「石座神社」の名で、西岩倉は『今昔物語集』(平安末期成立)に「西石蔵」の名で登場する(「西」と冠しているので、この頃には他の方位の「石蔵」もあった可能性は高い)。


京都四岩倉伝説については下記事で詳述しているので、これ以上はそちらを参照されたい。

京都「四岩倉」伝説について


「イワクラ」「イシクラ」概念史の中の八天石蔵の位置づけ

ということで、長い寄り道をしてきたが、ここで勝尾寺の八天石蔵と同じ「石蔵」の表記と初めて出会う。岩石信仰の見地から、他例と比較した八天石蔵の位置づけを試みてみよう。


平安京四岩倉伝説は「岩倉」の表記で知られるが、上述のとおり「岩倉」表記は17世紀文献までしか遡れない。それ以前は「石蔵」表記であり、『今昔物語集』の平安末期(12世紀後半)と八天石蔵が構築・記述された寛喜2年(1230年)頃は最大100年ほどの開きはありそうだが比較的近い年代観を共有している。

そして、さらに遡り『日本三大実録』の10世紀初頭では「石座」の表記である。この石座神社は京都四岩倉の中で唯一、自然の露岩をまつる「磐座」としての場所であり、ほかの三岩倉とは性格を異にした出自だった可能性もある。たとえば、神祭りの磐座祭祀の一字である石座だった場所が、中世以降に経塚・牓示の文脈である石蔵の影響を受けて四岩倉として再編された可能性などである。


もう一つの傍証として、兵庫県相生市の磐座神社の事例を取り上げておきたい。

詳しくは上リンクを参照してほしいが、磐座神社は『万葉集』にうたわれた「矢野神山」の候補地といわれ、山麓の境内および裏山の数か所に巨岩群が分布している。

今でこそ磐座神社表記であるが、当社はかつて石蔵明神・磐蔵地蔵権現・岩倉権現などと複数の表記で記されていたことがわかっている。山中の奥の院とされる巨岩には、背中合わせに神社の社祠と阿弥陀堂がまつられており、中世には神仏習合の地であったと思われる。

磐座神社も「石蔵」「磐蔵」「岩倉」などの「蔵・倉」グループに属す時代があり、いやむしろ、現代の「磐座」の表記が本来的であったかどうかも批判的にみないといけないかもしれない。

「磐座」は奈良時代の『日本書紀』、平安時代の『延喜式』祝詞・神名帳に登場する「イワクラ」の古い表記用例ではあるが、全国各地の実例を踏まえるかぎり、その後は中近世の長い時代にわたり積極的に用いられることはなかったように思われる。おそらく、神道に携わる一部の人々にしか広まらなかった概念だったのだろう。

それが江戸時代末期に国学者により神道的なものを復古・喧伝するにあたり、"神社以前の原始信仰"の一つである「磐座」にスポットが再び当たり、明治時代以降にかけて磐座の使用例は神道学者、神社関係者、研究者(市井含む)の間で増えていったことは、いちいち例示しないが当時の文献・雑誌のテキスト検索を行えば明らかと言える。この動きの中で、古代からの「磐座」と近代以降命名の「磐座」が混濁して現代に至っていることは、この20年ばかりの筆者の調査研究の中でも多く感じることである。

八天石蔵の事例から話を広げて、「イワクラ」「イシクラ」の語を巡る岩石信仰の諸問題を書き連ねることになったが、そのような点でも八天石蔵は数々の系統からなる事例群の結節点とも言える存在である。

冒頭に引用した『箕面市史』の文中にあるとおり、八天石蔵は勝尾寺開祖・開成皇子の結界に際して設けられたといういわれがあるが、開成皇子は桓武天皇の庶兄に当たる。四岩倉伝説で平安京の四至に経文を埋めたという桓武天皇と奇しくも絡んでくるのも興味深い。


まとめると、「イワクラ」の字は石座(古代)→石蔵(中世)→岩倉(近世以降)の時系列で追うことができ、八天石蔵は中世のイワクラ表記の影響を受けた事例として位置づけることができる。

そして、石座と石蔵とは直線的な系譜が結べるとは限らず、同じ「イワクラ」の音を共通するものでも、出自が「神祭りの磐座系統」と「経塚・牓示の石蔵系統」の二系統から始まっており、それが神仏習合で祭祀を同じくしていく中で岩倉などの表記も生まれていき、現在の複合的なイワクラ概念世界に至ったという流れが想定される。

他にも、音は異なるが仏像が立つ「岩座(イワザ)」の系統や、石垣や城郭施設に用いられる「石椋(イシクラ ※石蔵表記も用いられることがある)」の系統なども無関係だったとは思えず、音または字が近い概念同士は時代経過の中でどんどん混ざり合い、相互に影響しあっていったのではないか。


単に「イワクラ」を神祭りのそれとみるのではなく、また、音だけでなく字からも文脈・系統は異なり、磐座・石座・石蔵・岩倉などのそれぞれの字に込められた意味を細かく腑分けしていくことも重要な歴史学上のテーマであるように感じる。


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