山梨県山梨市牧丘町西保下
2023年7月17日月曜日
田中正造が小石を拾う理由
関根久夫氏「田中正造の墓と遺品の小石―正造が残した3個の小石―」(『ぐるり埼玉・石ものがたり49』pp.284-290, 幹書房, 2014年)で、田中正造と石の関係について知った。
おそらく関係諸氏の中ではすでに有名な話で、私が知るのが遅すぎたくらいで恥じ入るばかりである。
正造には小石を拾う趣味があり、足尾銅山鉱毒事件に一生を捧げた彼にとって、唯一とも言える趣味だったらしい。
その中でも特に3つの小石は、正造が亡くなる時に枕元に置いていた布袋に入っていた。
これらは現在、栃木県指定文化財として保存されている。
栃木県指定文化財/田中正造遺品・9点|佐野市正造の小石を主人公に置いた絵本も発刊されており、小石は現代でも更なる物語を紡いでいる。
【書籍紹介】『わたしは石のかけら もうひとつの田中正造物語』東京新聞2018年2月18日付記事によると、正造から石をもらった人も複数おり、家宝として大切にしている所もあると書かれている。
ここまでくると、正造への敬仰の象徴としての岩石物語と言える。
「小石」から見た正造 絵本に興味深いのが、正造が自身の日記で小石拾いの理由について記した事実である。
没年である大正2年1月9日の日記に次のとおりある(関根氏前掲書より)。
「思ふニ、予正造が道路に小石を拾ふハ、美なる小石の人ニ蹴られ、車ニ砕かるゝを忍びざれバなり。海浜に小石の美なるを拾ふハ、まさつ自然の成功をたのしみてなり。人の心凡此くの如シ。我亦人と同じ。只人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ。衆人の中ニハ見もせずして踏蹴けて行くもの多し。」
この文のさらに続く部分が、雨宮義人氏「田中正造翁の拾った庶民の心の美」にある(『日本』22(9)(260),日本学協会,1972-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11397114)。
「今の眼中、人民も同胞も兄弟もないものが、如何にして泥土に塗れた小石を顧みやうか。これ不善者の常である。汝の身心、玉でなくして、玉を愛してはなるまい。まして碌々たる石塊の中に玉があると思へない程度では、どうしようもあるまい。漠然、天下を見る状態では、砂利泥土しか映つて来まい」
岩石と人間の精神的関係において、当事者が理由を明記した貴重な記録の一例と言える。
正造の場合は自身の信条が先にあって、その行動実践の一つに小石拾いを据えていたことがわかる。
凡そ人が石に美や憐憫を感じることはあれど、実際に行動に移すことは少ない。その逆を行って、石を救って石の中に玉を期待することで、自身の信条も玉でありつづけようとする美学に基づいている。
正造の3つの石のうち、1個は渡良瀬産の桜石と考えられており、石肌に桜の花びら状の模様が付く、いわゆる名石の範疇である。
残る2個の石は不整形で他の何物にもたとえにくい、前掲関根氏の言葉を借りれば「どこにでもあるような小石」であり、正造はそこに価値を認めようとした。
その結果、正造が最初は理屈だったのが小石に接するうちに理屈を越えた感情でこれら小石に接せられたのか、日々、石の玉ならざるところと玉でありつづけようとする理屈のぶつかり合いだったのか、正造の書きかたではどちらの可能性もある。
2023年7月9日日曜日
岩石の性質メモ ~雑誌『高梁川』の石特集より~
『特集 石』目次 |
岡山県を南北に流れる一級河川・高梁川(たかはしがわ)を軸にして郷土を掘り下げる『高梁川』という雑誌がある(発行元の高梁川流域連盟HP)。
この『高梁川』第38号(1981年)が「特集 石」と題され、約250ページひたすらに各分野有識者の石をテーマにした文章を読むことができる。
雑誌の立ち位置から高梁川流域を主に岡山県と絡めた分も多いが、視座を全国に置いたものも散見される。
ここでは、とりわけ岩石と人間の精神的関係において普遍化できうると思われる部分をメモして後考に供したい。
青山忠一「石をめぐる故事と諺」
石の「い」は、いる、いすわる、など、しっかりとそこにいる、の意で、「し」は、しめかたまる、の義だと言う。また別に、「い」は単なる発語で、「し」はしずむ、とか下とかの語だとも説かれている。
石(いし)を「い」「し」に分けてそれぞれの語義を説いたものになるが、この説の出典が欲しいところ。
また、1981年当時の記述であるため、現在の研究状況において本説がどのような評価であるかの追跡が必要である。
著者の青山忠一氏は国文学者で、当時は二松学舎大学教授だった。
本タイトルのとおり、さまざまな石の故事・諺が紹介されている。箇条書きで列挙する。
- 毛切石…江戸時代、先頭に置かれて陰毛を切りそろえた軽石。単に「石」とも称した。
- 石に立つ矢の例…「念力巌も通す」と同じ。石を固いものの代表とみる例。
- 石で根継ぎ…柱が朽ちる前に石で継ぐことで、石の固さに期待している。
- 石の上にも三年…冷たい石が、三年かけると相応にぬくもりを感じる。
- 石に噛りつく
- 石橋を叩いて渡る
- 金部金吉金兜
- 石の文…冷たくそっけない手紙。固いものは自ずと冷たく非情にうつる。
- 石に灸…熱くもかゆくもない。無反応。
- 石に針
- 石を抱いて寝る…丸太と添い寝といった塩梅。木石(ぼくせき)の観念。
- 石を抱かせる…拷問刑。大抵の者が耐え切れず白状する。
- 石を抱いて淵に入る…求めて危険に向かう。危険の象徴。
- 石から綿…ありえないもののたとえ。
- 石に花咲く
- 石の腸
- 石のもの言う世のならい
- 石仏も物を言う…日頃寡黙なものが沈黙を破る。誰が何を言うかわからないという戒め。
- 石が流れて木の葉が沈む…『陸賈新語』由来。
- 石に口漱ぎ流れに枕す…『蜀志』由来。流石の語源、夏目漱石の逸話と絡める。
宇佐美英治「石の子」
石について一家言ある詩人・文学者の宇佐美英治。
(※「宇佐美英治「殺生石」~『日本の名随筆 石』を読む その14~」参照)
「石の子」とは、宇佐美英治の姪の上の子「タノちゃん」を指す。
宇佐美氏は自宅書斎の脇机にさまざまな石を並べて、愛玩していた。
そのコレクションに家族、親族、知人のほとんどは関心を示すことはなかったが(わかる)、親族で唯一例外だったのがタノちゃんだった。4才か5才くらいだったという。
「石の子」では、宇佐美氏とタノちゃんの石を巡るやりとりがほのぼのと描かれ、最終的にタノちゃんが「これがほしい」と要望した書斎の石を宇佐美氏があげるという顛末である。
タノちゃんが欲しいと言った石は黄銅鉱で、石自体はぎらぎらと輝くある種"わかりやすい"石だったので、タノちゃんがその石を欲しがったこと自体に宇佐美氏は特に疑問をもたない。
逆に宇佐美氏は、「心を動かされぬ大人の方がよほど私には不思議に思われる」と大人に矛先を向け、「地下の秘光に対する感応には何かそれぞれの人にとって運命的なものが関わりあっているのかもしれない」と神秘の煙に巻く。
子どもは人間の原初に近い存在であるため、岩石と人間の精神的関係を考える際にも、最も「ピュア」な事例として考える対象となりうる。
その点で、宇佐美氏が子どもの好みを、
- 草や花に見入る子
- 蝶や犬、鳥や獣、なべて生き物が好きな子
- 石や鉄が好きな子
の3種に類別し、岩石・鉱物・金属を同グループに所属させ、人間の原初の一つの流派に置いたことは参考となる。
(実際には時代によって自然物以外に興味関心は移ることは多かろうことは現代のデジタルネイティブを見てもわかるが、あくまでも5才以前における自然物への好みととらえたい)
なお、宇佐美氏がタノちゃんに託したメッセージが文末に書かれている。タノちゃんがはたして宇佐美氏のこの文を読む機会に浴したのか不明であるため、タノちゃんの目に触れる確率を僅かでも高めるために以下紹介する。
タノちゃんはいまは小学三年生のはずである。タノちゃんは大きくなったとき、地質学者や賢治やリルケのような人になるだろうか。それとも中年をすぎてから、ふとしたはずみで石が好きになり、Iさんのような石気ちがいになるだろうか。タノちゃんは石屋さんにも彫刻家にも、地理学者にもならないかもしれない。しかしタノちゃんが四十才か五十才になったとき、この文章がまだどこかに残っているとしたら、いつかこの一文を読んで、幼かった日のことやこんな男がいたことを思い出してくれることを私は願っている。
本書刊行の1981年から現在2023年まで42年が経ち、小学3年のタノちゃんはちょうど宇佐美氏が思い描いた50歳代のタノさんに到達したはずである。
壺阪輝代「石の連想」
詩人の壺阪輝代氏は、石を主題にした詩を書くことが多いという。
その理由を壺阪氏自身がふりかえってみると、子どもの頃の2つのエピソードによるものだと紹介している。
よく川へ遊びに行っていた私は、ある日きれいな石を拾って帰った。私が持っている石が川の石であることを聞いた祖母が「川の石は拾うものではないよ。川の中には死んだ人の霊が宿っているのだから」と、私の手の中の石を眺めながら言ったことがある。当時、「死」というものに対する漠然とした恐れを抱きはじめていた私は、祖母が語っていることの本当の意味はわからなかったが、手に持っている石の中に、死んだ人が生きつづけているのだと、自分なりに感じることができた。(略)私は、すぐにもとあったところに石を捨てに行った。
当時私が住んでいた家の裏から山へ続く道があり、その途中の草むらに横たわったいた石のことである。その石は扉くらいの大きさがあり、上に向いた部分が平らであったので、小さな子供達の格好の遊び場所であった。(略)子供心に、なぜこんな大きな石があるのか不思議で、母に尋ねたことがある。母は、「これはむえんぼとけさんの石だよ。なんでもクロエモンという人の石らしい」と教えてくれた。「むえんぼとけ」という意味はよくわからなかったが、クロエモンという人がこの石の中に生きつづけているにだろうち思った。石の中から声が聞こえてきそうな気がして、私は恐いような冒険したいような気持で、恐る恐る石に耳をあてたものだ。また、石の下にどこか入口があって、そこから中へ入っていけるのではないか、と思ってさがしたこともある。
石にこだわりを持った人が、ある程度明確に自分のきっかけを明文化したという点で貴重な記述と言える。
ただし、これらの記述を読むかぎり、先天的というより後天的な要素が濃いように思われる。
高梁川という一大河川において岩石が多く存在する自然環境に育ったというのも、もちろんあるだろう。
それに加えて、盆行事の精霊流しがあって子どもの頃の壺阪氏もそれをすでに知っていたという文化的背景が、無意識に死生観を育んでいた可能性もある。
そしてエピソードトークにおいては、自分一人だけの心だけで完結していない。祖母から川の石についてのタブーを聞かされ、そのタブーについては壺阪氏自身から生まれたものではなく、あたえられた知識である。なぜそのタブーが存在するのか祖母は教えてくれない。理由がわからないからこそ論理付けしたくなる。そこから各個人の新しい心が生まれる。
クロエモンの石についても、幸運にも過去の話者たる母が存在していた。母が前世代から受け継いだ物語がなければ、壺阪氏からの疑問に深みをもつ答えを返すことはなかっただろう。
そして壺阪氏自身が、疑問に思ったことをすぐに尋ねたり、実際に石にいろんな行動をうつしたりする知的好奇心の塊だったという属性もある。同じ情報を受け取っても、人によって無反応であればそこで話は終わる。さらに、壺阪氏自身が幼い頃の出来事を上記のレベルで言語化できる人物だったことなど、さまざまな因子が偶発的に重なってこの記述が発生している。
実際には、川の石を無邪気に拾う人もいるし、それを許す文化環境も存在する。自然に触れる機会が少ない都市部の人々においてなら、石の体験・物語・話者が少ないなかで石に出会う物語はどのように異なるのだろうか。
その点で、環境下によって異なる反応は普遍的、先天的とはまだ言いにくい。翻って岩石の多種多様性を示す個別的経験の事例なのである。
寺田武弘「石には季節がない」
大きな石には、途方もない安心感と同時に。無言の恐れがある。(略)大石を割ったときに注意して見ると、割れた石の表面を、かすかな水分が引いていく。ときに、水滴のこぼれたことがあって石工に聞くと ”そりゃ、石の涙じゃ” ――。しばし石の重さを忘れた。春先や、秋の夕暮れに、石に寄りかかるようにして彫っていると、昼間の太陽のぬくもりを、まるで石の体温のように感ずることがある。
彫刻師である寺田武弘氏の上記のくだりは、石に日常的に接して、見ているだけでなく手を入れて石の別の面を見た人でないと書けない。
石を「その時」だけでなく、職業的にいつも関わらざるをえない状態に置かれた人は、また常人とは異なる心理を生じただろう。
無言の恐れを常人として抱いていても、仕事として手を加えて割るという状況下に置かれる。そこで割られて初めて目撃した石面だけでも、新しい刺激やインスピレーションを受ける。それは、岩石の一つとして同じ模様や形状がないという性質のなせる業でもあるかもしれない。
それだけでなく、本記述においては石の涙や石の体温といった現象が登場する。涙や体温は石と人を同一視しており、いわゆる「擬人観」の例として位置づけることができる。
これらがただの「精神的な異常」ではなく、自然科学のなかでじゅうぶん説明できる現象だとよく表現された文である。自然科学はある程度の再現性、不変性を担保する。
馬越道也「北木島の石材採掘史について」
岡山県笠岡市の笠岡諸島のひとつ、北木島で石材業に就く馬越道也氏による、自らの生業と自らの生まれ育った島の一大自分史が記される。
「特集 石」のなかでも最大紙幅の30頁におよぶ本稿の終盤で「石の心」と題された節がある。現役の石工の一人による石の精神的記述として紹介する。
人に心があるように石にも心があると思う。禅問答のようであるが、石の心は公平無私であり。真理に忠実であり、接する人に無限の教訓を与えていると思う。石は矢孔を掘ってクサビ(矢)を入れて叩けば割れるが、忠実に力学の法則に従って割れる。いささかの不合理も許さない。石は物理学の貴重な鏡であり、師である。採石場の石壁に向ってさまざまな岩石の亀裂を眺めるとき、いつどうしてこのような亀裂が出来たのかと限りない興味を覚える。盤石も寸余の矢で割れ、磨けば玉ともなり、碑となっては万人を偉仰せしめ墓となっては苔むして静かに史を語る。一旦怒れば大地震となって断層を残し、人々に多くの訓戒と宿命を説く。
岩石に四六時中接した当事者だからこそ感得した「石のルール」があり、それは現代の知識・価値観と矛盾しない。
矛盾しているとしたら、それは岩石が人にコントロールされる時もあるし(物理学の鏡であり、寸余の矢で盤石も割れる)、コントロールされない一面を見せることもある(さまざまな亀裂の尽きることのない成因、怒りとしての災害・断層)という二面性と混沌である。
ここで非実用としての岩石の精神と、実用としての科学の一種の統合を見たように思う。
塩尻備章「魔性の舞台に舞う―私の岩登り考―」
登山家の塩尻備章氏は、特に岩登りを愛好しており、その魅力を文にしたためている。
岩石に対して「登る」という形で精神的愛着を示すその仔細が参考になる。
岩登りの魅力の一つは「死への恐怖」と言えようか。きりたつ絶壁を登攀してゆく人を素晴しいと思って眺めるのは、それはその人が死と隣り合わせにいるというまぎれもない真実を見ているからである。そしてその行為が無償の行為だから美しいのである。
ほかに塩尻氏の記述でハッとした部分を紹介する。
「岩を登りに行く人にとって、その過程の山登りは付随的なものであり、目的は岩登りとしても、たいていの人は山の中にある岩を登りにいくという認識をもっているようである」
「岩へ登る行為は修行僧にも似たものと述べたが、成程苦しみも恐さも同じように味わっても、しょせん遊びである以上、岩登りをする者に人間的な成長はあまり期待しえない。このことは私と私の知っている愛すべき山仲間の真実がもの語る。」
「何故岩を登るのか。岩登りの魅力とは、岩を登る人達の答えは各々違うだろう。ただ高ければビルでも登る人もいる。私は、やはり本当の岩場が良い。そこには自然の息づかいがあり詩情がある。圧倒的な岩壁が人の心のやさしさを拒絶する。」
岩登りを、岩石に関する他の心情(信仰など)に置き換えても成立しそうな普遍性がみられそうでありながら、塩尻氏が岩登りと修行僧(信仰)は違う、と当事者がバッサリ斬っているその事実に、人間と岩石の精神的関係を安易にイコールにむすぶ早計に襟を正される思いがした。
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