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2023年9月26日火曜日

焼石神社(岐阜県揖斐郡池田町)


岐阜県揖斐郡池田町 池田山(標高924m)9合目

 

安政年間の旱魃に、池田山麓の村々の田畑の作物が枯れそうになり、飲み水にも困ったことがあり、それ以後の小寺村は最も雨乞に熱心であった。

昔から日照りの続くときは、池田山頂の焼石神社へ雨乞いに詣ることになっており、その年も村人たちは願成寺村内田要助、八幡村富田孫三郎を先頭に池田山へ登り、焼石神社に必死の雨乞祈願をした。その霊験か、山頂上空に黒雲が巻き起り、大雷雨となり、村人は命からがら下山途中薪小場へ避難した。そのとき富田孫三郎の家へ落雷し、同家はその火災によって焼失したという。しかし、その大雨によって農作物は生き返り、池田山麓の農民たちは喜び、これは焼石神社竜神のお陰だとして松明を村の石高に割当て、何百本と作って、大津谷、霞間ヶ谷、小寺シナヶ谷、藤代の山へと続いて、鉄砲を合図に一度にその松明に火をつけて、村々を挙げて、竜神の霊験に感謝してお祭りしたといい、その後も旱魃の度に焼石神社へ雨乞いをした(森武一記録)


上記述に岩石は登場しないが、1980年に「池田の森公園」が作られる前までは神社名の由来となった焼石と小祠があるのみだったという。岩石から端を発した神社だったことは異論ない。

焼石の名は、雨乞いの恩恵と裏返しの厄災としての落雷・火災と関連するものか。安政年間(1855~1860年)までの記録はたどれるようだが、それ以前の歴史はわからない。

焼石(上から撮影)

焼石(下から撮影)

本殿背後には別で岩石4個が横並びしている。

社頭の雨乞い池

現地由緒板

なお、焼石神社へ至る県単林道 池田~明神線は2024年2月29日まで道路工事をしており、その期間内は曜日・時間帯によって通れない場合がある(日曜休工・平日時間規制通行止)。

現在の林道は部分的に非舗装で通りにくいところもあり、車で訪れるなら2024年3月以降をお薦めする。


参考文献

池田町 編『池田町史』通史編,池田町,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537622 (参照 2023-09-25)


2023年9月24日日曜日

ウサギ岩とカメ岩/兎岩と亀岩(岐阜県不破郡垂井町)


岐阜県不破郡垂井町岩手


明神湖の畔に2個横並びに置かれている。

道路から向かって右側(東側)がウサギ岩で、左側(西側)がカメ岩である。

ウサギ岩(写真右)、カメ岩(写真左)

ウサギ岩

カメ岩

明神湖はダム湖であり、湖ができる前は湖底に沈んだ岩井谷にあった。ダム工事の際に失われることなく現地へ移設された経緯がある。


岩井谷の入口にあったこの2つの岩は、狭い谷筋において通行人の邪魔になっていたため、そのことを自覚していたウサギ岩とカメ岩は領主(竹中家)に当地を守護することを申し出たという。

また、ウサギ岩とカメ岩は孤独なおじいさんの話の聞き相手になったという民話もかつて見聞きした。


岩石でありながらも、無機物としての認識ではなく、生き物と同じウサギ・カメで人と会話できる存在とさえなっている。

それは一種の霊異にみえるが、岩石も人間に歩み寄り、どちらが上、どちらが下という構図ではなく、対等的な付き合いをした典型例である。


参考文献

「広報たるい」2023年1月号


2023年9月18日月曜日

徳川家康公天下腰掛石/天下お踏石(岐阜県不破郡関ケ原町)


岐阜県不破郡関ケ原町大字今須



関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、中山道今須宿(いますじゅく)本陣を務める伊藤家に立ち寄り、伊藤家庭内の空泉水の傍にあった岩石に床几を置いて腰掛けたという。

不破郡居益郷(いますごう)の地名を聞いた家康は、「破れ不る郡」「益々居る郷」とは関ヶ原の勝利にちなんでめでたいと上機嫌で、伊藤家に米百俵を与えたという伝説が残る。

伊藤家の庭石だった岩石は「天下腰掛石」「天下お踏石」として大切にされてきたとのことだが、この岩石はその後に近くの青坂神社の入口の門柱に利用され、そして2016年に伊藤家の菩提寺だった青坂山妙應寺に移設されたという経緯が記録されている。

場所を数度移ろいながらも、岩石も破却されず坐し続けている。


参考文献
不破郡地名研究会・編 『ふるさとものがたり 不破の地名』 不破郡教育委員会 1988年

2023年9月10日日曜日

大海人皇子の兜掛石・沓脱石(岐阜県不破郡関ケ原町)


岐阜県不破郡関ケ原町松尾

 

沓脱石遠景

沓脱石

兜掛石

現地看板

不破の関すぐ北の畑の中に、およそ15mほど離れて沓脱石(西)、兜掛石(東)が存在する。

当地は旧地名で兜石の名が残り、大海人皇子が兜を置いたこの石から由来するものとされる。兜掛石のほうにだけ覆屋がされていることからも、この二石のうち兜掛石のほうが重きを置かれていたような様子がある。

付近には、皇子が下船したという「木船(元貴船)」の地名や、皇子が矢尻で土を掘って湧水が出たという「矢尻池」の地名が残る。


参考文献

不破郡地名研究会・編 『ふるさとものがたり 不破の地名』 不破郡教育委員会 1988年


2023年9月2日土曜日

日本武尊の腰掛岩/腰掛石/腰掛台(岐阜県不破郡関ケ原町)


岐阜県不破郡関ケ原町玉


日本武尊が伊吹山にて毒にかかり、ふもとの冷泉で休息したと『記紀』にある。

その伝説地が関ケ原町の「玉」と呼ばれる地で、そこには旧跡として玉倉部の清水や尊の腰掛台が残る。

「この清水を、『玉倉部の清水』とか、『居醒泉』とよぶようになった。今の関ケ原町玉の鍾乳洞のすぐまえの清水だといわれている。その南の方には、タケルが休んだというまるい腰掛石があり、玉石の地名となった。それが玉という地名のもととも言われる。」(不破郡地名研究会・編 『ふるさとものがたり 不破の地名』 不破郡教育委員会 1988年)



道路沿いの標識をお見逃しなく。

全国各地の腰掛石の中では巨大なほうである。

岩石の上から足をおろして腰かけたと想定すれば良いが、実際の人間が腰かけるには難儀するだろう。