長野県北佐久郡立科町芦田八ケ野 雨境峠
雨境峠は、蓼科山(標高2530m)の西北麓を通る峠である。峠の頂上で約1580m地点となる。かつて東山道はこの峠を通っていたといい、その一証左として峠道には約7㎞にわたり古墳時代から中近世にかけての遺跡が分布している。「役の行者越」の俗称も残る。
この遺跡群を総称して雨境峠祭祀遺跡群と呼び、南から北へと順に列挙していくと「御座岩・桐陰寮上・赤沼平・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・勾玉原・法印塚・鳴石」となる。
本記事ではこの順に沿って各遺跡を紹介する。
御座岩
御座岩 |
御座岩の下部は白樺湖に沈む。 |
御座岩から望む蓼科山(写真右奥) |
御座岩に付随する看板 |
役行者が岩の上で柴を焼いて護摩を焚いたという伝説と、武田信玄が川中島の戦いの途上で座った岩という伝説が残る。
岩は白樺湖畔にあるが、白樺湖は第二次大戦後に造られた人造湖のため、現在の景観とは異なることに注意したい。
景観が異ならないのは、ここから仰ぎ見られる蓼科山だろう。桐原健氏は、御座岩のあたりまでは蓼科山を大きく仰げ、その先の白樺湖北東側(池の平)まで登ると蓼科山が隠れてしまうことに着目して、この岩石が蓼科山を遠望できる好地に存在した自然岩盤だからこそ祭祀の場になったと重視している。
御座岩の南側の岩穴(岩陰)から、縄文早期~後期、弥生・古墳・平安時代という、非常に長期間にかけての、各種土器・土偶・石鏃・石斧・獣骨・堅果類・剣形石製模造品などが出土した。
岩穴は白樺湖に水没し、現在は岩の上部のみが見えるが、このことから御座岩岩陰遺跡の遺跡名もある。雨境峠祭祀遺跡群の中では、もっとも南に離れて蓼科山を遥拝する遺跡だったという位置づけになる。
桐陰寮上
桐陰寮上と呼ばれる地から、古墳時代の蕨手刀が1点出土した。遺物に関連する遺構は未検出のため、遺物散布地としての遺跡である。
赤沼平の鍵引石/鉤引石
女神湖という人造湖があるあたりを、古くは赤沼平と呼んで低湿地だった。
赤沼平からは蕨手刀1点・鉄片が出土しており、また、戦前には八幡一郎氏が小玉・有孔円板を採集したという。いずれも古墳時代の遺物とされている。
これらの遺物群との関連性は不明だが、赤沼平には鍵引岩(鉤引石)と呼ばれる安山岩質の自然石が現存する。高さ1.5m、最大径5mほどで、道の下斜面にあるため目を見張るような一大巨岩というわけではないが、道路工事の後は3分の1ほどが埋もれている状態だというので往時はもう少し大きかったようである。
この地に巣食う河童が鍵引石に座り、通行人へ鍵引きの遊びをもちかけて赤沼平の湿地に引きずり込んだという伝説が残る。
鍵引石の傍らにはかつて直径1m、深さ2mの穴が穿たれていたといい、巨木が存在した可能性が指摘されている。
賽の河原
「賽の河原」とは、雨境峠の手前の緩やかな峠の上にあったという直径20m、高さ2m程の石塚(盛り土の上に大小の石を敷いた塚)で、塚には地蔵尊が安置され、「塞の河原」の表記も残る。
高度経済成長期の観光開発・道路開発の中、昭和40年に事前調査がないままに賽の河原は破壊されてしまった。ここから寛永通宝3点が採集されているので、江戸時代に一種の投銭祭祀が行なわれていたのは確実と言える。
緩やかな峠の頂上ということで、分布図に落とされた位置なども考えあわせると下写真のあたりに存在したものと推測される。
賽の河原があったと思われる地点。 |
塚の4分の1ほどが残るともいうがどの土の高まりがそれに該当するかは不明である。また、この塚の東の山林を入った所にも石塚があったという古老の話が残り、現在の道沿い以外にも複数の塚が存在していた可能性が想定されている。
地蔵尊は頭部欠損しながらも道路向かい側へ移されたと昭和40年時点では書かれていたが、現在特定はできなかった。
雨境峠頂上に近いこの辺りまで来ると、ふたたび蓼科山を南方に望むことができる。
雨境峠頂上付近から望む蓼科山 |
与惣塚(よそうづか)
与惣塚 |
塚の頂部には礫石も確認できた。 |
径15m、高さ1.6mの規模を持つ石塚で、「賽の河原」と同様の性格を持つものだったとされている。ただし、この塚からは遺物が発見されていない。
与惣は伝説に関する人物名というが、その伝説の詳細に触れられることは少ない。
中与惣塚(なかよそうづか)
中与惣塚 |
中与惣塚の頂部 |
前2例と同じく、径11m、高さ1mの石塚である。
「賽の河原」が破壊の憂き目に遭ったことから、当時の石塚の状態を記録にとどめようと調査が行われ各種の遺物が発見された。内訳は、古銭40点(北宋銭が大半で一部近世の古銭あり)、御正躰と思しき青銅板14点、薙鎌9点、鉄釘は少なくとも6点分出土した。
この塚の調査により、雨境峠に点在する石塚は、中近世の人々が峠を往来する時などに交通安全などを祈念した祭祀施設だったのではないか、と歴史的に位置付けられる契機になった。
桐原氏は、遺物の型式を綜合して鎌倉時代末期から室町時代初期に築造された塚群ではないかと具体的に年代を絞り込み、塚を建てて追善供養などを行なう「十三塚信仰」の系譜を引く祭祀遺構と位置づけている。
勾玉原
中与惣塚の辺りから雨境峠頂上までの一帯では、玉類がよく採れたという由来から勾玉原と呼ばれたという。実際に数名の研究者が数種の滑石製品を採集した。
滑石製品の形態的特徴などから、古墳時代後期~終末期(6~7世紀)の遺物と評価されている。
現在確認できるものとしては臼玉・管玉・勾玉・有孔円板・剣形品があり、滑石製品に限られている特徴がある。土製品はもちろんのこと、滑石以外の石製品の発見もないのは、本遺跡での祭祀を考えるに当たって非常に興味深い傾向と考えられている。
法印塚/山伏塚
雨境峠の北斜面側にある径12m、高さ1.5mの石塚。山伏塚の異名もある。遺物の出土は確認されていないが、中与惣塚と同様の施設と目される。
鳴石/鏡石
石を叩くと金属音がするが、石材にして割ろうとした石工は雷を落とされて悶え死んだという祟り伝承が付帯する。
鳴石は直径2.5mほどの2個の岩石を鏡餅状に積み重ねた構造物で、周辺から古墳時代の臼玉3点・有孔円板1点・剣形品破片1点が採集されている。
鳴石のこの鏡餅状の構造は、人工的なものだと考えられている。岩石自体の調査が行われており、上と下の岩石の接触部分は互いに形状・寸法が一致せず、それに加えて溶岩構造が異なることが判明している(雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団 1995年)。
ずっと地表に露出していた岩石だと思われるのでこの構築が遺物の出土と同じ古墳時代と断定して良いかという問題はあるが、この岩石が存在することで祭祀遺物がここに捧げられたと考えるのが今は自然だろう。
また、調査では鳴石の周りは同心円状に礫が敷き詰められていたこともわかり、これも人為設置の祭祀施設とみなすことができる。
雨境祭祀遺跡群を代表する場所のみならず、人為的に構築された古墳時代の岩石祭祀遺跡としても貴重な事例である。
参考文献
- 雨境峠祭祀遺跡群発掘調査団(編) 1995 『雨境峠』(立科町文化財調査報告書5) 立科町教育委員会
- 大場磐雄 1935 「峠神の一考察」『上代文化』第13輯
- 桐原健 1967 「長野県北佐久郡立科町雨境峠祭祀遺跡群の踏査」『信濃』Ⅲ・19-6
- 桐原健 1982 「雨境峠遺跡群」 長野県(編)『長野県史 考古資料編 全1巻(2)主要遺跡(北・東信)』 長野県史刊行会
- 小林幹男 1995 「蓼科山麓の祭祀遺跡と古道」『古代交通研究』第5号
- 坂本和俊 1993 「古墳時代の祭祀研究の問題点」 第2回東日本埋蔵文化財研究会『古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第Ⅲ分冊-西日本編-近畿・山陽・山陰・九州・発表要旨・文献目録・四国地方》
- 椙山林継 1965 「古代祭祀遺跡分布私考」『上代文化』第35輯
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