村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節がある。
この中で大略、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。
書名タイトルが示すとおり、本書は大和朝廷成立にいたるまでの出雲の影響を論ずる内容であり、古代史において出雲は熱く注目される存在の一つであるだけに、本書の磐座論の影響も古代史研究において今後大きな比重を占めるのではないかと思われる。
本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。
村井氏の磐座論の最初の例示は、京都府亀岡市の出雲大神宮の磐座から始まる。
社殿背後の御蔭山山麓から山裾にかけて数ヶ所の磐座が分布しており、山岳信仰や岩石信仰が盛んだったことを推測させる。
しかし、残念ながらこれらの岩石群は歴史的に文献で確認できる存在ではない。この1点を以て、岩石群を神社以前に先立つ歴史資料として私は根拠に用いない判断をする。
本書では交野市の磐船神社も例示され、饒速日尊の天磐船の社伝が紹介されて出雲との関連が説かれるが、社伝で語られる神社創建の由緒をそのまま実際の歴史の古さに置き換えられない。
磐船神社の他にも、各地の神社の祭神から出雲とのつながりが模索されているが、各神社の社伝や『先代旧事本紀』や『倭姫命世紀』などの文献の引きかたを読むかぎり、文献登場以前の古層を伝える記述とて信頼するにじゅうぶんな史料批判をおこなったようにはみえなかった。
たとえば、三輪山における奥津磐座・中津磐座・辺津磐座概念が古代まで遡りうるかは懐疑的であるにも関わらず、特に疑問なく採用されて岡山県宮座山の奥津・中津・辺津と対照させているあたりなどに、史料批判の不足を感じる。
また、村井氏は磐船神社の磐船の織りなす雰囲気から縄文・弥生の時代まで遡りうるものと記したり、籠神社の真名井神社磐座が木の根が絡みついた光景から由緒の古さや神さびた雰囲気を感じたり、見た目が立派な磐座は●●であるなどと記すが、これらの感想は生活基盤も知識背景も隔絶した現代人の主観であり、学術研究としては書くものではない。客観性担保の観点から言えば、この記述の中で巨石でない岩石は閑却されている。
本節には「訪れた磐座所在地」という分布図が掲載されている。
出雲を中心に磐座が濃密な分布を見せるが、キャプションが書くとおり、これは村井氏が訪れた場所を分布に落としたものに過ぎず、分布論的には何の意味もなさない。キャプションが堂々と書いているからミスリードさせる意図はないのだろうが、「出雲に磐座が多い」という感想を視覚的に抱く読者は一定数いるだろう。
村井氏は日本古代・中世史の専門研究者であるが、祭祀・信仰の世界に関しては明文化されていない資料が多いからこそ、その解釈には自らが抱いた宗教的感情・精神に沿って論じて良いという一種のロマンが許されているように思う。しかし、これらの危うい記述を重ねていくことで論証として許されるというなら、それは楽観的に過ぎるだろう。
ほかにも『古事記』の「出雲の石硐(いはくま)の曽宮」を、特に根拠なく「岩陰だろうか」という着想からスタートして、いつのまにか「磐座祭祀そのものであろう」と展開する論理を、認めることはできない。
私は、本例の「石」が物質の岩石を指すか不明のため、積極的評価はしていない。歴史を復元する人は、そう慎重であるべきだと思う。
加茂岩倉遺跡とその近くにある大岩、そして近くの山中にある矢櫃神社の巨石も例示される。
この事例は古くから遺跡(青銅器)と巨石信仰の関連性を語る事例として取りあげられやすいが、当地の場合解決しないといけないのは、遺跡から目に見える範囲の近さに巨石があるわけではなく徒歩数十分かかる距離を「近く」と呼んでいいのかという問題である。「近い」の概念に本来検討すべき問題がある。
徒歩数十分の距離にある岩石と何らかの遺跡を結びつけて良いのなら、もはや色々なものが「関係がある存在」として扱えてしまうだろう。
なぜこのことを重くとらえるのかというと、不明な問題を解決して安心を得たいため、すべてに関係性を見出そうとしてしまうのがヒトの認知構造だからである(ステュアート・ガスリーの「宗教の認知的理論」ほか、宗教認知科学の諸研究より)。
自己批判なしの関連性や結びつけは無尽蔵であり、どのような仮説でもできあがってしまう素地がある。しかし現実はその結びつけどおりでないことも当然多い。現代に生きる私たちどうしでさえ、相手が何を考えているかわからないから、その不安を解決するために主観的な理屈を結びつけてしまうことはある。今を生きていない過去の人々を物するならば、なおのことだろう。
その点で、本書にはいくつもの出雲系との関連を窺わせる岩石が登場するが、数をいくつ重ねていっても、当事者が残した明示的な記録がない限り(当事者が残した記録でさえ文字通りに解釈できないこともあるのに)、判断基準は私たち現代人側にある。
研究対象の人間と自分との間に価値観の断絶があるという配慮をもち、確定的でないものを結びつけていって自他同一の錯覚に陥るのではなく、自己批判の上で錯覚を極力そぎ落としていく姿勢が望まれる。
ただし念を押すと、村井氏は磐座信仰を「出雲系の信仰圏に限るものではない」とも釘を刺していることは触れておきたい。
村井氏は「あえて」磐座を表現するなら「出雲系の神々の世界の徴証」だとみなしており、出雲族が鉱山開発、鉄生産のために山中に分け入る中で巨石に出会ったことが磐座信仰につながり、出雲の特徴的な信仰になったと評価しているのである。
ただその場合は、出雲族以外が鉱山に手を出さず製鉄に関与しなかったという前提が必要なように思う。一部族のみが金属をつかさどったと考えるほうが難しいのではないか。しかも、その生業を文献伝承上の神名・地名・氏族研究などの形而上概念で証明させることは難しいだろう。
つまり、「出雲系の神々の世界の微証」という前提でさえ、土台がゆるぎないテーゼというわけではないのである。
歴史研究とは、常に自己批判的でありたいと思う。
村井氏のいう磐座は、いわゆる自然石としての巨石に対する信仰を一括した用語になっている。厳密にいえば村井氏は「巨石に神の霊が宿るとする磐座信仰」と述べているが、それ以外の石そのものを神とする石神信仰や、巨石以外の岩石信仰は言及されていない。実質的に、古代の石の信仰はすべて磐座に一括されている理解に落ち着いている。
そもそも石神と磐座を同列に並べて良いものか、岩石の祭祀はおしなべて磐座なのかといった疑問は、村井氏著書より前の拙著(2011年)で問題提起済みのテーマであり、この議論を通過して解決しなければ古代の磐座論は先へ進めない。
磐座や巨石は、真に「出雲系の神々の世界の微証」と言えるのだろうか。
村井氏は「丹後から飛び立った天磐船は、各地の出雲系の神々をあらたに見出し、繋ぎ合わせるという役割を果した」と記すが、自然信仰である巨石・磐座を、人格神をベースとした体系的神話のみで成立させる危うさはないだろうか。
たとえば『出雲国風土記』に登場する「石神」は、特定の神名がつく前の自然神としてのありかたを伝えている。
琴引山の石神の記述では一切の神名が記されず、大船山(神名樋山)の石神の記述では「謂はゆる石神は、即ち是、多伎都比古命の御託なり」と追記的に触れられ、前後関係から考えれば多伎都比古命が後世付加的で人格神以前の石神が元来のありかただろうと考えられる。
したがって、出雲系の磐座信仰を論ずる際に、いわゆる出雲神話という体系に拠ること自体が、磐座信仰・石神信仰なるものの本質を見えなくしてしまう恐れがある。
本記事は岩石信仰研究の立場から、村井氏著書のとりわけ磐座祭祀論の部分のみに絞って取り上げたものに過ぎないが、以上を踏まえた結論としては、磐座祭祀が出雲系祭祀の徴証だったという論には賛同いたしかねる。
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