2023年7月に公開された宮﨑駿監督の映画「君たちはどう生きるか」では、石がさまざまなモチーフとして登場した。けっして石が主題の映画ではないが、妙に石が多用されてあれらは何だったのか印象に残るらしい。作品自体の評価は手に負えないが、石の部分だけ触れておこう。
全体を通しての石の印象
本編序盤で主人公が傷をつけるため拾った石から、中盤の異世界で登場する石、現実世界へ持ち帰ってきた石まで、映画全編にわたって石が散りばめられている。
一見して国内外の石の思想やイメージが混濁していて、おそらく意図的だろうがそれをあまり整理整頓していない印象だ。
物語の流れ自体もカオスだが、石の取り扱いもカオスである。本作を作るのに無数の元ネタが存在し、それらを吸収した宮﨑監督の脳内が開陳されている。
だから気をつけたいのは、たとえば本作を見ると石と人の原初的なものがわかるとか、核心めいた答えをつかめると思うと危ない。
宮﨑監督が人生の中で後天的に獲得してきた石の知のいくつかを、あえて脳内のまま展示したので、私たちが覗き見てカオスをどう秩序付けるかを託されているという立ち位置を自覚しておきたい。
石の塔の構造(隕石・石の主・石の産屋)
石の塔は、作品中で現実世界と異世界を繋ぐ媒体であり、元は隕石として描かれる。隕石そのものは外見的にも物理的にも特殊な石で、わかりやすい異世界からの来訪者である。
石の塔と聞いて思い出すのは心理学者のユングである。
彼は後半生において、石に一種の表現をしたいと思い、石を組んで自分の家を作り、たびたび増築し、その構造物を「塔」と呼んだ。
ユングは一人で集中したい時に石の塔へ駆け込み、本人の言葉を借りれば石の中は生まれ変われる母の胎内のようなものだと表現した。映画を観覧した方なら、石の塔の思想背景に相通ずるものを感じられるのではないだろうか。
石の中から新たな命が誕生するという精神性は他にもある。ローマ帝国時代に流行ったミトラ教の神は岩石から産まれ、台湾原住民の各部族では岩石が割れてその部族の始祖が産まれたという伝説が共有されている。
そんな石の塔の中には「石の主」がいて、石の主と人は契約を交わす関係らしい。元が隕石なので石には破壊的な力を内在しているシーンが描かれるが、石の主が作品内で擬人化されることはない。
その代わり、石の塔の最奥部に「石の産屋」が登場し、主人公はそこで継母と出会う。継母は誘われるかのように無自覚のまま異世界の石の産屋に逃げ込んでいた。
現実世界にいたたまれず、石の中へ退避する。
先のユングにとっても石はそのような「アジール」だったが、万葉集や常陸国風土記にも周囲からの言葉に耐えられない時は石室や石城に籠ろうという歌が残っている。
石の墓
石の中へ逃げ込みたいという思想は、そのまま石の中で死ぬという行為とも親しくなる。岩窟に籠り続けて入寂する仏僧の事例も多い。
異世界の中で、石の産屋とは別で「石の墓」が登場する。ちょうど中盤のカオスな物語の中で唐突に現れる。
見た目は巨石を組んで構築した石舞台古墳かのようである。横穴式石室であればそのまま墓であり、日本神話のイザナキとイザナミの黄泉国神話は横穴式石室の埋葬・追葬儀礼を神話化したものだという説もあるほどである。
主人公の実母は火災で亡くなり、異世界では火を操るキャラクターだった。石の墓に誰が葬られているのかは明示されていないが、火で死に、火の神カグツチを産んだイザナミが想起される装置である。
石の塔からつながる他界は死者の世界として描かれるが、そこから新しい命(ワラワラ)が天井に上ってもいる。それはしばしば「死と再生」という概念で語られるが、国内の前近代の民俗儀礼においては、石に子宝安産を願う事例もある一方で避妊、間引きなどで子殺しを行う事例も確認されている。
石の中で産み、石の中で死ぬ世界が両立しているのである。
石の積み木
作中後半で、悪意のある石と悪意のない石の対比が語られる。
石の塔の主人たる大叔父が積んだ石の積み木を見て、墓に使われるような石は悪い石と主人公が発言した。そこで、大叔父が、積みあがっていない状態の石を別で授け、それは悪意のない石として表現された。この「石の積み木」は、監督が観客にそれぞれの人生をどう生きるかを託すメタファーとして用いられたと考えられる。
積みあがっていない石には悪意はなく、無垢のように思える。だが、人は産まれてから今までの間に、すでに石と何らかの形でつきあっており、石の知識やイメージを後天的に獲得している。その意味で、無垢な石はあり得ない。
子どもなら、産まれて間もないため石に接する経験は少なく、無垢に近い存在として取り上げられるのかもしれない。しかし、人間の認知機能の研究分野では、その人の先天的な認知機能は六歳までの幼児期に確立されるという説もある。
赤子ならともかく、映画の主人公くらいの年であればすでに無垢の存在ではない。
石も同様に、感情をもたない無機物だから無垢のモチーフにされるが、それ自体が思い違いで無垢な石は一種の理想なのである。
主人公が手に取った石二つ
主人公が自発的に手に取った石は二つある。
一つ目は、本編前半で拾った石で頭をぶつけて嘘をついた場面。その時についた傷を後半部では悪意の証と明言する。その場にたまたまあった石を無分別に選択しただけだが、この時点で主人公は無垢ではいられない。
二つ目は、本編最後に主人公が異世界から持って帰ってきてポケットに入れた石。持ってきてはダメな石だが、多少の力なので影響は少ないと作中で解説されている。
川の石をむやみに拾ってはいけないといった民俗は多く、その思想に対する反抗とみることもできるが、これも石の先天的なイメージをむしろ利用している。
つまり、石の塔の主人たる大叔父は主人公、ひいては私たち受け手に無垢の石の理想を求めるが、すでに大叔父に出会う前から人と石の関係は無垢ではないし、大叔父が差し出す無垢と言っている石も実は無垢ではない。
さらにいえば、石の塔の核となる隕石は、自分が無垢でいようと思っても、外来から突如やってくる異質な存在との出会いでもある。石をどのように欲し、扱い、出会いたいと思っていても、外部との関わりなしではいられないし、本作のように論理が非整合的で答えが用意されていない、論理的に世界のすべてが理解できるようになっていない。
石自体が、人によっては他の何かに置き換えできる「無垢ではないイメージ」である。それをどのように置き換えて受け止めるかも個々人の人生である。まさにどのように生きるかを試されている。
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