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2024年5月27日月曜日

雄神神社と野々神岳(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁白石町

 

雄神(おが)神社は、地元で「大神神社の奥の院」と称される。雄賀、雄雅、雄ヶなどの字を当てる場合もみられる。

神社の形としては三輪山をまつる大神神社と類似して、本殿を有さず拝所のみをもって背後にそびえる野々神岳(野野神岳・野野上岳)を拝する。


野々神岳(標高450m)は、二つの峰が横並びにそびえる双峰をなす。

雄神神社から向かって右(東)を雄神岳、向かって左(西)を雌神岳と呼び、全山禁足地が今も守られているが、山頂に蛇がすむ洞窟(岩堂)があり元旦朝には金のキジが鳴くと『都祁村史』(1985年)にある。

野々神岳の遠望。左手前が雌神岳、右奥が雄神岳。

機会があり、神社前に代々お住まいの東山さんにお話を伺うことができた(2024年3月17日聞き取り)。東山さんは雄神神社を護持されており、地区内で唯一、禁足地の野々神岳に登ることが許されて山頂で毎年お供え物をまつる家系の方という。

東山さんいわく、たしかに山頂には蛇の形をした石があるという。双峰のうちどちらの山頂にあるかを伺ったところ、右側の山頂とおっしゃったので雄神岳の頂上と思われる。

岩石の形状はとぐろを巻いたようにくるくるしていて、蛇の頭の部分は東を向いていると表現されていた。大きさについては、人の背丈をはるかに越えるとのことだった。


山頂には白蛇がすんでいて、かつて安易に山頂に登った人は腹を痛めて亡くなったとまことしやかに語られ、それで山には登らないようにいわれている。

東山さんは親から毎年の登拝を継承され、酒・米を供え続けてきたが、約14~15年前(2010年頃?)から体を痛めてしまいそれ以降はもう登らなくなっているとのことだった。

道も消失しているだろうが、いずれにしても何人も登ってはならないという思いを強く感じた。私たちはその禁忌を尊重しなければならない。


また、雄神神社の拝殿奥には立ち入れないが鳥居が建ち、その鳥居下に大小2個の岩塊と、それぞれの石上に数個の丸石が置かれている。





これらの岩石の意味について東山さんに確認したところ、これらは山をまつるための「仮の石」と表現された。

岩塊、そして上の丸石自体はこの状態のままずっと存在し続けているとのことで、ここ最近に置かれたり、年月を経て石の数が増えたりしたものでもないらしい。

大西眞治氏『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』(2010年再発刊)によると、白石地区から石を持ち出すと病気になると信じられ、他所から石を持ってきて神前に供えるようになったという。このような理由により献ぜられた石かもしれない。


『都祁村史』によれば、雄神神社は昭和の頃から地元だけでなくその霊験がとみに取り沙汰され、関西一円に信奉者が生まれるようになったという。昭和6年に始まった毎11月16日の雄神マツリはその一例で、当社・当山の信仰のありかたに何らかの影響があった可能性も考慮が必要である。


なお、雄神神社から西方の白石国津神社に向かって4つの森がつづき、これらは雄神神社の神が国津神社へ神幸するときに休息した「やすんば(休ん場)」として知られている。

国津神社から雄神神社へ向かうことはなく、必ず雄神神社側から一方向という。山頂にすまう白蛇を踏まえると、蛇神の山―里の進路を疑似するか。

雄神神社から白石国津神社(写真奥の社叢)方面を撮影。

赤丸で囲んだ位置が「やすんば」


参考文献

  • 都祁村史刊行会 編『都祁村史』,都祁村史刊行会,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575962 (参照 2024-05-27)
  • 大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』私家版 2010年(原著1982年の再発刊)


2024年5月19日日曜日

『最新 地学事典』掲載項目の「磐座」補注


地学団体研究会・最新地学事典編集委員会[編]『最新 地学事典』(平凡社)が2024年3月に刊行されました。

私は新規収録項目「磐座」を担当しましたが、定価44,000円のため実物に手が出せず、地元図書館に購入リクエストの上でこのたび確認することができました。

記事執筆に際しては200字を目安にとの条件がありましたので、極めて端的に磐座の説明を施しました。

今後、インターネットを含めた一般社会の中で「磐座」の正しい用法が広まるように、この記事で説明と1字1字に込めた真意を補注として掲載します。


磐座の定義紹介

以下、『最新 地学事典』p.108より引用。

いわくら 磐座

stones and rocks where spirits dwell

日本列島において、神や精霊が宿ると信じられた岩石。「座」の字をもつが、各地の事例における岩石の形状は必ずしも台座状ではなく一定しない。また、岩石の大小や自然・人工の別を問わない。磐座の表記は『日本書紀』が初出で、同時代の『古事記』では石位、『風土記』では石坐の字で表記される。現在では神聖な岩石全般を表す言葉としても普及するが、類語に磐境(いわさか)・石神(いしがみ)などが知られ、学史上ではそれぞれ意味が異なるとされる。[吉川 宗明]

 

補注

英訳 stones and rocks where spirits dwell
安直に Iwakura と書くことも考えましたが、Iwakura はイワクラ(磐座)学会が国際用語として普及を目指しており、同学会が提示するカタカナのイワクラの概念は狭義の磐座の概念とは異なるものとして意図的に設定されています。
そのため、地学事典に本来の用語として掲載する磐座は Iwakura を使用せず、用語の意味を正確に定義づけるものとしました。
「磐」は、出典の『日本書紀』において「石」との区別がほとんどされておらず、日本語における岩と石の両義を兼ねるものと考えられ、stones and rocks としました。
「座」は、日本各地の実例を勘案するかぎり座る様態だけを指さず、適切な表現として dwell(宿る)を採用しました。日本における神(カミ)概念は英訳において spirit(s) が望ましいと考えました。

日本列島において、神や精霊が宿ると信じられた岩石。
つまり、英訳 stones and rocks where spirits dwell に照応する端的な定義が上記です。
補記するならば、磐座概念は神道文脈であることを考えて日本列島限定の概念として取り扱うべきです。海外において同様の信仰構造を有する事例もありえますが、それを「磐座」という言葉で置き換える行為は、日本を中心に置いて他者を同一化する異文化理解からはかけ離れたものであり不適切です。
また、「信じられた」を挟むことは自明ですが、英訳ではこれ以上長くすることを控えて割愛しました。

「座」の字をもつが、各地の事例における岩石の形状は必ずしも台座状ではなく一定しない。また、岩石の大小や自然・人工の別を問わない。
磐座の一般的イメージと実情の乖離がこれ以上進まないように、200字の中で必要な説明と考えて加えました。
すべての磐座事例を踏まえるかぎり、磐座とは神の座石だけでも語れず、自然信仰の象徴として取り扱うのも不正確で、巨石遺構の代替語としてもありえないのです。ぜひお気をつけください。

磐座の表記は『日本書紀』が初出で、同時代の『古事記』では石位、『風土記』では石坐の字で表記される。
「磐座」「石位」「石坐」は史料上、同列で表記されていい「いわくら」の字です。
「位」「坐」をも内包した「クラ」の幅広い性格を認めつつ、本来的には字より音が先行するこの言葉が「磐座」という一語彙に押し出されていく流れに考えを巡らせたいものです。

現在では神聖な岩石全般を表す言葉としても普及するが、類語に磐境(いわさか)・石神(いしがみ)などが知られ、学史上ではそれぞれ意味が異なるとされる。

末尾のこの一文が重要と考えます。

客観に徹するため、現在の「磐座」概念が神聖な岩石全般を呼ぶ時にもっとも手っ取り早い用語として使用されていることは事実であり、このことはしっかり書いておかないとならないと思いました。

今回、「磐座」は社会に普及している地学関係の言葉として評価されたことから、「地学教育」の分野において新規収録されました。

であれば、どのようなイメージをもって社会に普及されているかを明記することは本事典に盛り込まれるべきであると判断し、私個人としては先述の経緯から誤ったイメージとは知りつつあえて書きました。この思いを感じとっていただければ幸いです。

それに続く磐座・石神・磐境の「学史上ではそれぞれ意味が異なるとされる」の一文で現状への疑問も浮かぶように配慮しました。石神・磐境の事典への立項は相成りませんでしたので、それ以上は人文系の各種事典に託された仕事となると思います。


なお、本事典には類語として「巨石文化」(p.373)も立項されています。

そちらの項目は巨石写真家で知られる須田郡司さんが執筆されており、建造物としての人工の巨石文化(おそらくこちらがパブリックイメージ)と、自然物に対する巨石への文化に大別しているのが特徴です。

人工の巨石文化を墓所、宗教施設、暦、天体観測所とみなして、自然物の巨石は信仰の拠り所として、注意深く前者と後者を分けて説明されています。

「岩質は花崗岩が顕著」と明記されているのは踏み込んだ記述と感じますが、巨石に限れば巨石を形成しやすい花崗岩がたしかに多いのかもしれませんが、いずれにしても巨石文化のデータ数の母数と、岩種ごとのデータを提示しないとなかなか恐くて明言できません。

また、巨石ではない岩石(巨石とは何か?の問題が常に浮上します)を含めるとどうなるのか、岩石の大小と岩種の関係は相関するのかなど、未解明のテーマは多いと言えるでしょう。


岩石に関する定義まとめ

関連事項として、岩・石に関する用語が『最新 地学事典』でどのように説明されているかをまとめておきます。

いわ 岩 rock

地質学分野でいう岩石に相当するが、主として土木工学の分野で使用する用語。(略)岩は土に対しある程度以上の硬さがあるものをいう。(略)[皆川 潤] p.108より

地質学の中では俗称としての位置づけにありますが、興味深いのは、岩と対比されるのは石ではなく土という点です。

土に硬さが加わることで岩になるという関係が描かれています。


いし 石 stone

(1)岩石、鉱物の俗称。

(2)海図図式の低質記号では St と表示され、径256㎜以上の礫。(略)[岩淵 義郎] p.84より

岩と同様に地質学では俗称として扱われます。この点で、学術用語としての総称は岩石そして岩石を含む鉱物が適切となります。

また、礫と石の大きさによる区分も説明されています。小礫―礫―粗礫―石という小大関係です。


がんせき 岩石 rock

地球上層部(地殻および少なくとも上部マントル)を構成する物質。数種(まれに一種)の鉱物の集合体。(略)鉱石は有用金属を多量に含む特殊な岩石。石炭・岩塩なども特殊な岩石。[端山 好和] p.320より

岩石は鉱物の集合体で、特に有効な金属を含む場合は鉱石として別で呼称されます。

私が使用する岩石信仰の概念を顧みると、地表に露出して人類が出会えることのできる鉱物の集合体に対して、実用的に有用か無用かとは別で信仰の心理を持つにいたるもの、という定義に収まるでしょうか。

岩が rock で石が stone で岩石になると rock になるあたりが、執筆者が異なるので何とも言えませんが面白くもモヤモヤします。

私はこのあたりの言語運用の曖昧さを包括するため、stones and rocks で岩石を表すことにします。


こうぶつ 鉱物 mineral

天然に産する無機質の均等物質で規則的原子配列をもち、ほぼ一定の化学組成をもつもの。ここで、ほぼ一定の化学組成と曖昧に定義してあるのは、固溶体を作るということに対応している。国際鉱物学連合(IMA)の新鉱物・命名・分類委員会としては鉱物を「地質学的な過程を経て形成された固形物質」と簡潔に定義。(略)[赤井 純治・宮脇 律郎] p.488より

岩石を構成する鉱物の定義。天然であること、地質学的過程を経ること、固形であること、そしてそれが集合した物質が岩石であると地学的に定義づけられると言えます。


本書は1648ページの本冊と、376ページからなる『付図付表・索引』の別冊の2冊をカバーに入れて合冊したものとなります。

「最新」の名を冠することからこれ以上の改訂を出版社として企図しているかは不明ですが、将来的には電子書籍化も検討されていると聞きました。

何かしらの形で、本書の知識が広く社会に普及すればと願っています。


2024年5月14日火曜日

鑑賞石(水石・盆石)を始める ~失われつつある自然石文化財~

 先日、骨董市で1個の岩石を買いました。


幅15㎝、高さ10㎝ほどで、底部に「名倉」の銘があります。

お店の方に来歴を訪ねると、かつてこの石を所有していた方の名だそうで、お亡くなりになった後にご遺族が処分したうちの1つとのこと。

いわゆる水石と呼ばれる鑑賞石の一つで、底部は直線的に切られていること(底切り石)から、かつては専用の木製の台座を製作してその上に置いて鑑賞していたものと思われます。

お店の方いわく、買取の際にはすでに木製台座はまとめて破却されてしまっていたらしく、惜しいことです。

名倉銘をもつ複数の石がコンテナに入れられていて、感情に来た1個を引き取りました。名倉コレクションを全部引き取る財力はなくバラバラにしてしまった業を感じつつ。


さて、台座がなくなったこの石を、どのように置こうか。

私に台座製作の技術はないので、他の方法で、できることなら正しい方法で安置してみることにしました。

ただし立派な床の間があるわけではないので、あくまでも自分の作業机の上という限られたスペースです。

佐藤観石著『伝統的水石文化』(2017年)

私の水石知識の典拠は、手元にあったこの本。

同書によれば、水石の飾りかたには台座石飾りと水盤石飾りの2種に大別されるとのこと。

名倉さんの石には台座がない以上、水盤飾りがふさわしいということで、岩石信仰研究を始めて20年以上たったいまさら、鑑賞石のイロハをスタートしました。

水石・盆石の専門の方からみれば噴飯ものの内容も含むでしょうが、現代において初心者がイチからデスク上で石を楽しむという観点で意味があると思い、記録にまとめてみます。


砂を探す

水盤飾りの場合は、砂を水盤に敷いてその上に石を置くのが作法らしい。

水石に敷く砂は、現在は薄茶色系統の細かい砂が主流のようですが、古くは白砂を敷いていた時代もあるとのことで、個人的な直感から石には白砂を合わせることにしました。


どれくらいの砂が必要なのかわからず、とりあえず1kg(上写真は500g)を購入。


水盤を探す

次は、砂を敷く水盤。

調べてみると、地元四日市で万古焼製の水盤を作っていたらしい。

妻が華道を習っていたことがあるため聞いてみたところ、水盤を求めに万古焼の窯元に予約して行ったこともあるとのこと。

せっかく飾るなら地元の水盤で揃えたいと思い、いくつかのお店を巡りました。


が、昔と比べて店舗数の減少は否めないことに気づかれます。

アンテナショップとしての役割がある「ばんこの里会館」を筆頭に、卸問屋や知人から紹介を受けた窯元まで訪ねます。

鉢はあるのですが、水盤は(ゼロではないが)ほとんど見当たらない。

「水盤って、あの水盤ですか?」「昔は作っていたんですがねえ…」

白系の長方形のものを唯一見つけましたが、嵩が高くて色も黒や紺・灰系が今の石に合うかと思い、もう少し探すことにしました。

結果的に地場万古焼には貢献できず、インターネットで水盤を検索して、お手頃な陶製のものを注文。

さっそく砂を敷いてみると、



二皿で使用した砂は500gでした。

ヘラと刷毛を使ってできるだけ平らにならすことが重要ですが、白砂を敷いて気づいたのは、砂粒が大きいと平らにすることがいかに難しいということ。

おそらく水盤・水石のサイズに対して、この白砂は粒が大きすぎたと感じます。

でも、最初からうまくいくことはないので、このままいってみます。


卓を探す

どうやら床の上に直に水盤を置くだけではだめらしい。

床の上に卓を置き、その卓の上に台座石または水盤石を飾るという作法を知りました。


そもそも卓(たく)と読まず卓(しょく)と読むことも知りませんでした。

机卓なら家具屋さんの領域なのでしょうが、このような伝統的な卓が量販店にあるとは思えず…。

四日市市内では昔ながらの家具屋がほぼ絶滅していますが、妻の地元の家具屋にならあるかも?とのこと。

店員さんがあれこれと専門のカタログを出してくれました。華道の道具としての「花台(かだい)」と呼んだほうが通りは良いようです。



いろいろあるものですね――。

マイデスクに置けるスペースは計測済みで、幅50㎝、奥行き20㎝までの範囲内が望ましいので、その条件で絞り込んで平卓(ひらじょく)と呼ばれるシンプルな卓を買いました。

花台が売れることももう多くはない時代ということで、店員さんが店舗の奥で眠ったままの品をいくつか持ってきてくれました。

その中で凄まじかったのが下写真の根卓(ねじょく)。


他の花台と比べても現品限りの破格の安さだったため、こちらも引き取りました。

この根卓の上に水盤を置いても溢れてしまうので、こちらはすでに所有していた別の鑑賞石を合わせることにしました。


6年前、私が京都のミネラルショーで初めて買った石です。

私は岩石信仰の場を観察する人としていつづけてきましたが、石を所有する人の気持ちが知りたいと思って足を運んだ展示会で出会った石でした。

来歴不明石ですが、しっかり台座が設えられていて、いろいろなモチーフを見立てることのできる抽象性の高い石だと感じています。

今まではこの石だけをデスクに安置しつづけてきましたが、さて…。


水盤石を飾る

これで飾りに必要な道具はそろいました。

平卓を置き、その上に水盤、砂、水石という順で置いていきます。

砂の上に水石を置いた後は、石底が砂の中にやや埋もれるように、水石の頂を手で押し付けながら、石周りの砂をヘラでならしつつ隙間を埋めていくように整えます。



こうみると、白砂が真っ白すぎることや、粒が大きすぎるなどの砂の「強さ」が課題として浮かび上がるかもしれません。でも、白砂なりの清浄感や鑑賞石との対比感も良いように思います。

水石には形・色・質の三要素があるといいます。

名倉さんの石をこの三要素にあてはめるなら、形は山水景情石のなかの山形石に属するものとして選定されたと思われます。

主峰をメインに置きつつ、周囲に連山が囲む形でもあり、オーバーハングした岩崖様の部分や深い渓谷を見せるかのような、1個の石で峻厳な山の様相を包括しているあたりが良いと感じたのが手に取ったきっかけでもあります。

色についてはどうでしょうか。山形石においては真黒~蒼黒の色が最も好まれるといいます。本石においては黒系統ではありますが真黒とは言えず、石肌がまだらに灰色を帯びます。この灰のまだらを汚れとみなすか侘び寂びとみなすかはおそらく受け取りの分かれるところだと思います。どちらもあると思いました。

質(石の質感)の評価としては、水盤石飾りにおいては水持ちの長い石が良いとされているそうです。

なぜなら、水盤石においては上から水をかけて石を濡らし、その濡れた石肌の様から乾くまでの石質の移り変わりを眺める鑑賞方法があるからです。


そこで、その水盤石飾りを存分に味わうため、石を水で濡らしてみることにしました。

とはいえ、屋内でどう濡らしたものかということで、色々見てみると水石愛好者の方々も霧吹きスプレーなどで簡便に楽しんでいらっしゃるようなので、私もそうすることにしました。

水は水道水をそのまま使うと塩素の影響があるということです。煮沸して塩素を抜くのが正道ですが、簡易にドラッグストアで売っている蒸留水で代用しました。


霧吹きでかけた直後。あえてまんべんなくは濡らさず、下の方には無理に当てていません。

水盤から水がこぼれないように吹きかけますが、石の角などに当たるとどうしても思わぬ方向に飛びます。手を添えて周囲が濡れすぎないようにしました。


約10分経過した状態。この石は、頂面が乾くのが速すぎる(約1分しか持たない)のが課題ですが、山々の間の峡谷部分に水が流れ込み、水が溜まる部分では1時間たっても乾きません。


上部から見ると三角形状に石が広がっており各々に異なる表情を見せますが、言語化しにくいものの、名倉さんが正面に据えたのはおそらくこの形だろうと思うのです。

水石には養石といって、石に水を打って天日干しを繰り返したり磨いたりするなどして、石肌を黒光りさせる時代感(年月の経過)を表すなどの考えかたもあるようです。

名倉さんがどこまでこの石に手を入れていたかは知る由もありませんが、私個人としては、すでにこの石は名倉さんによって養石されていて、その名倉さんという一個人の岩石に対する心理をそのまま読みとれればと思う立場なので、特にこれ以上の養石はおこなわないつもりです。


台座石を飾る

名倉さんの水盤石飾りは以上となりますが、ついでに台座石のほうの飾りつけも紹介します。


左は前述の京都ミネラルショーで引き取った、私にとっての最初の水石。

右は旅行先でたまたまくじ引きゲットしたフローライト(蛍石)。これは水石ではなく鉱石ですが、こちらの置き場所も定まっていなかったため居場所を用意しました。その意味でも二か所の机を持つこの根卓はうってつけでした。

しかし、ご覧いただいて感じる方もいるかもしれませんが、根卓のインパクトが強すぎて、肝心の石の存在感が負けているようにも見受けます。

手のひらサイズの水石飾りには、華美加飾の卓よりも石を引き立たせるように一歩引いた卓が良いのかもしれません。


デスク周りの飾りはひとまずこのようになりました。

この前にノートPCを置いて今このブログを書いています。QOLが上がったような心持ちになるのは、疑いなく鑑賞石の効能でしょう。

上を見れば石・砂・水盤・卓の価格は天井知らずですが、このあたりであれば数千~1万円台で一式をそろえることができました。

これはという一石と出会うことができたら、このような形で鑑賞石を始めてみるのもいかがでしょうか。


鑑賞石を文化財保存と照らし合わせる

本来、私は岩石を取り巻く活動において傍観者でありたいと思って、石をただ見続けるだけにとどめて石を集めることは(京都ミネラルショーまで)しませんでした。

それは、いわゆる磐座・巨石と俗称されるような岩石信仰の場が自然石であっても不動の遺構・文化財であり、誰かにとっての聖地だったから当然です。また、考古学を学ぶ中でその実物が原位置に存在しつづけることを歴史として次代に伝えていく重要性を教えられたことも大きいでしょう。


それに対して、鑑賞石は同じく自然石とはいえど、自然のままそこにあり続けるのではなく、自然石の形・色・質を邸内に移動するという行動様式です。

養石をおこなえばさらに自然石の自然のままとしての位置づけは薄まりますし、卓・水盤などの床の間飾りからわかるとおり中近世の華道・茶道・盆栽などの社会背景の中である程度フォーマット化されたものですが、石を邸内に移して持ち主の感性をもってその人の「自然」観がより色濃く岩石に投影されるという点では、同じく自然石に魅入られた人間研究と言えます。

私は岩石を通して人の精神・心理を感受したい趣向の人間なので、鑑賞石へのさらなる勉強と理解が必要と感じるこの頃です。


以上の経緯から、私個人の信念では探石(石を産地に拾いに行くこと)を通して石を集めることはしませんが、探石・養石を経て石を鑑賞する人々の思いは歴史として記録・継承されなければならないと思います。

水石ブームは昭和戦後期に俄かに起こり、その反動として現代では数々の水石の流出・破却が起こっている様子です。名倉さんの石コレクションの骨董市での販売はそのほんの一角でした。

一つ一つの石をその持ち主の歴史と考えた時、現代起こっていることは自然石文化財の消滅と同義と言えます。

その意味で、今後は持ち主の失われた/失われようとしている鑑賞石を見かけたときは、自らが引き取っていくことも選択肢に入れることにしました。ここ数年の石集めはすべてそうした思いに基づいてしているものだと、今言葉にして整理できたような気がします。


水石、そして今回全く触れられなかった盆石について語らなければならないことはまだまだ浮かびますが、鑑賞石から岩石信仰を含めた自然石文化を考える余地は大いに広がっていると言えます。

まずは鑑賞石の手始めはここまでとして、次は石を増やす方向ではなく、地元で水石・盆石を嗜む先達の方々にお会いできる機会を模索しようと思います。

地元四日市の隣町、桑名には水石の名産地といわれる員弁川が流れ、その関連の施設や団体が活動されているそうです。教えを乞うことができれば、鑑賞石文化という一つの社会の中での岩石の在りかたを探究できると考えています。


2024年5月6日月曜日

下部の牛石(山梨県南巨摩郡身延町)


山梨県南巨摩郡身延町下部



下部温泉郷から湯之奥集落へ通じる道中にある。

現在は手入れが行き届いていない様子にみえるが、鳥居右手には下部の名所を巡るスタンプラリーの記念スタンプが収納されたボックスがまだ残っていた。かつての下部温泉観光のよすがを感じとれる。

現地看板には牛石の由来が記されているものの、墨書が消えかかっている箇所が多く極僅かしか読み取ることができない。

いわく、「下部温泉には古くから五石と云って有名な五ツの石が有ります。牛石もその五石の中の一ツであります(以下、判読難)」らしいが、他の四石がどこの何であるかは不明である。

現地看板

『下部町誌』(1981年)に牛石の伝説が採録されており、同書によれば武田信玄が自慢の愛牛に乗って金山の様子を巡検中、その牛が突如暴れ出して信玄を振り落としたうえで路傍の大石に激突して死んだ。牛を引いていた従者も自責の念に駆られてその場で自害。起きてしまったことはしかたなく、このようなことで家臣を失った信玄は哀れに思い従者と愛牛を大石の傍らに葬った。この逸話から大石を牛石と呼ぶようになったという。

本伝説を踏まえると、牛石がたとえば牛の石化し神格化した存在ではないことはわかる。

牛石 近景
牛石の手前には力石のような岩石も添えられている。


それでは現在、牛石の手前に祠や鳥居でまつられていることをどのように受け止めればいいか。

これは一種の弔いや鎮魂祭祀としての形であり、その点では従者と愛牛は祠の中で神霊と化している。村落にとっての祖霊ではないが、死者の魂安らかならんとする聖地であり、その祭祀の可視化されたものとして神社祭祀の諸設備が設けられたものと解される。

あるいは、牛石を通して信玄公の遺徳を顕彰する場としても機能するのかもしれない。

そして、時代を経るうちに牛石はこれらの「神々」を祭神とする社にいたり、今は道行く人々が(詳しい由来を知らなくても)各種祈願を行う場としても機能しているに違いない。


なお、町誌には他に犬石(古関)、たかあげまこ岩(高萩の地名)、大明神の大岩(桑木山ろく)、大けやき下の水神様の岩(上之平)、七尋岩(栃代山)、お春岩(川向)、権現滝の馬の足あと岩(清沢)、太郎石(紙谷橋の下)、お駒の寝床(反木川旧道)などの、自然石に関する伝説地が紹介されている。詳細の位置は記述から読み取れないものが多いが、これらの中のいずれかが「下部の五石」の可能性もある。


参考文献

  • 下部町誌編纂委員会[編]『下部町誌』 下部町役場 1981年