2024年5月27日月曜日

雄神神社と野々神岳(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁白石町

 

雄神(おが)神社は、地元で「大神神社の奥の院」と称される。雄賀、雄雅、雄ヶなどの字を当てる場合もみられる。

神社の形としては三輪山をまつる大神神社と類似して、本殿を有さず拝所のみをもって背後にそびえる野々神岳(野野神岳・野野上岳)を拝する。


野々神岳(標高450m)は、二つの峰が横並びにそびえる双峰をなす。

雄神神社から向かって右(東)を雄神岳、向かって左(西)を雌神岳と呼び、全山禁足地が今も守られているが、山頂に蛇がすむ洞窟(岩堂)があり元旦朝には金のキジが鳴くと『都祁村史』(1985年)にある。

野々神岳の遠望。左手前が雌神岳、右奥が雄神岳。

機会があり、神社前に代々お住まいの東山さんにお話を伺うことができた(2024年3月17日聞き取り)。東山さんは雄神神社を護持されており、地区内で唯一、禁足地の野々神岳に登ることが許されて山頂で毎年お供え物をまつる家系の方という。

東山さんいわく、たしかに山頂には蛇の形をした石があるという。双峰のうちどちらの山頂にあるかを伺ったところ、右側の山頂とおっしゃったので雄神岳の頂上と思われる。

岩石の形状はとぐろを巻いたようにくるくるしていて、蛇の頭の部分は東を向いていると表現されていた。大きさについては、人の背丈をはるかに越えるとのことだった。


山頂には白蛇がすんでいて、かつて安易に山頂に登った人は腹を痛めて亡くなったとまことしやかに語られ、それで山には登らないようにいわれている。

東山さんは親から毎年の登拝を継承され、酒・米を供え続けてきたが、約14~15年前(2010年頃?)から体を痛めてしまいそれ以降はもう登らなくなっているとのことだった。

道も消失しているだろうが、いずれにしても何人も登ってはならないという思いを強く感じた。私たちはその禁忌を尊重しなければならない。


また、雄神神社の拝殿奥には立ち入れないが鳥居が建ち、その鳥居下に大小2個の岩塊と、それぞれの石上に数個の丸石が置かれている。





これらの岩石の意味について東山さんに確認したところ、これらは山をまつるための「仮の石」と表現された。

岩塊、そして上の丸石自体はこの状態のままずっと存在し続けているとのことで、ここ最近に置かれたり、年月を経て石の数が増えたりしたものでもないらしい。

大西眞治氏『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』(2010年再発刊)によると、白石地区から石を持ち出すと病気になると信じられ、他所から石を持ってきて神前に供えるようになったという。このような理由により献ぜられた石かもしれない。


『都祁村史』によれば、雄神神社は昭和の頃から地元だけでなくその霊験がとみに取り沙汰され、関西一円に信奉者が生まれるようになったという。昭和6年に始まった毎11月16日の雄神マツリはその一例で、当社・当山の信仰のありかたに何らかの影響があった可能性も考慮が必要である。


なお、雄神神社から西方の白石国津神社に向かって4つの森がつづき、これらは雄神神社の神が国津神社へ神幸するときに休息した「やすんば(休ん場)」として知られている。

国津神社から雄神神社へ向かうことはなく、必ず雄神神社側から一方向という。山頂にすまう白蛇を踏まえると、蛇神の山―里の進路を疑似するか。

雄神神社から白石国津神社(写真奥の社叢)方面を撮影。

赤丸で囲んだ位置が「やすんば」


参考文献

  • 都祁村史刊行会 編『都祁村史』,都祁村史刊行会,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575962 (参照 2024-05-27)
  • 大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』私家版 2010年(原著1982年の再発刊)


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