山梨県南巨摩郡身延町下部
下部温泉郷から湯之奥集落へ通じる道中にある。
現在は手入れが行き届いていない様子にみえるが、鳥居右手には下部の名所を巡るスタンプラリーの記念スタンプが収納されたボックスがまだ残っていた。かつての下部温泉観光のよすがを感じとれる。
現地看板には牛石の由来が記されているものの、墨書が消えかかっている箇所が多く極僅かしか読み取ることができない。
いわく、「下部温泉には古くから五石と云って有名な五ツの石が有ります。牛石もその五石の中の一ツであります(以下、判読難)」らしいが、他の四石がどこの何であるかは不明である。
現地看板 |
『下部町誌』(1981年)に牛石の伝説が採録されており、同書によれば武田信玄が自慢の愛牛に乗って金山の様子を巡検中、その牛が突如暴れ出して信玄を振り落としたうえで路傍の大石に激突して死んだ。牛を引いていた従者も自責の念に駆られてその場で自害。起きてしまったことはしかたなく、このようなことで家臣を失った信玄は哀れに思い従者と愛牛を大石の傍らに葬った。この逸話から大石を牛石と呼ぶようになったという。
本伝説を踏まえると、牛石がたとえば牛の石化し神格化した存在ではないことはわかる。
それでは現在、牛石の手前に祠や鳥居でまつられていることをどのように受け止めればいいか。
これは一種の弔いや鎮魂祭祀としての形であり、その点では従者と愛牛は祠の中で神霊と化している。村落にとっての祖霊ではないが、死者の魂安らかならんとする聖地であり、その祭祀の可視化されたものとして神社祭祀の諸設備が設けられたものと解される。
あるいは、牛石を通して信玄公の遺徳を顕彰する場としても機能するのかもしれない。
そして、時代を経るうちに牛石はこれらの「神々」を祭神とする社にいたり、今は道行く人々が(詳しい由来を知らなくても)各種祈願を行う場としても機能しているに違いない。
なお、町誌には他に犬石(古関)、たかあげまこ岩(高萩の地名)、大明神の大岩(桑木山ろく)、大けやき下の水神様の岩(上之平)、七尋岩(栃代山)、お春岩(川向)、権現滝の馬の足あと岩(清沢)、太郎石(紙谷橋の下)、お駒の寝床(反木川旧道)などの、自然石に関する伝説地が紹介されている。詳細の位置は記述から読み取れないものが多いが、これらの中のいずれかが「下部の五石」の可能性もある。
参考文献
- 下部町誌編纂委員会[編]『下部町誌』 下部町役場 1981年
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