2024年6月29日土曜日

盗人岩(愛知県北設楽郡設楽町)




詳細は以下の文献で報告済。

吉川宗明「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」『地質と文化』第6巻第2号 pp.81-106 2023年





2024年6月23日日曜日

石山寺の岩石信仰(滋賀県大津市)


滋賀県大津市石山寺


石山寺本尊は岩石の上に立つ

石光山石山寺は山号が示すとおり、石山(石の山)に建つ寺として知られる。

石山寺座主の杲守が至徳元年(1384年)に記したという「石山寺石記」では、石山寺境内に存する岩石を単なる景観とみなしておらず、本尊が坐す場所を「八葉の宝石」、鎮守社の基壇を「数仭の怪巖」と表現する。

「八葉の宝石」は金輪際から湧出した岩石で、草創以前から常に岩石には紫雲がたなびいていたといういわれも付帯する(松井心海『石山のしほり』)。八葉の蓮花にたとえるさまは多分に仏教的表現だが、石山寺の石山が在来より聖なる岩石であるから霊場に選ばれたという説明になっている。

金輪際は仏教の世界観で語るところの地の底であり、本尊の坐する岩石が地中奥底とつながっているという伝承は、奈良県桜井市の長谷寺の「金剛宝磐石」にもみられる(横田 2023年)。

石山寺と長谷寺は共に観音信仰の代表地として知られ、岩座に立つ観音を懸造の堂宇にまつる点で共通する(松崎 2020年)。石山寺開祖の良弁と長谷寺開祖の徳道は師弟関係で語られることもあることから、このあたりの宗教的背景の共通性は色濃いものと思われる。

石山寺本堂。八葉の宝石は堂内に覆われて通常目視することはできない。


弥生時代の青銅器祭祀との関係

石山寺の石山が仏教以前から聖性視されていた可能性を伝えるのが、石山寺から発見されたという「銅鐸」の存在である。

正中年間(1324~1326年)成立とされる『石山寺縁起絵巻』には、仏閣を建てようと砂石を削ったところ「五尺の宝鐸」が出てきたとの奇譚を載せる。

鎌倉時代末期成立の『元享釋書』にも石山寺の「五尺宝鐸」の記事があるが、これは『石山寺縁起絵巻』が記す宝鐸と同じものを指し、「異界からの鐘が出現したという事実が造成地の聖性を示すという中世的価値観を重層的に含んでいる」と評価されている(石橋 2010年)。


この宝鐸は絵巻の中で寺院の風鐸の絵で描かれているが、石山寺においては寺から約1km離れた地点からも、文化3年(1806年)に見つかった銅鐸が届け出されており、こちらは現存している。この銅鐸は絵巻のものとは別物ではあるが、銅鐸を産する一帯に石山があったことはたしかである。

絵巻の制作時にすでに宝鐸実物が失われていて、仏教的に解釈されて描画されたという指摘もあり、この縁起上の宝鐸が弥生時代の銅鐸であった可能性はあながち否定できない。

弥生時代の青銅器が自然石の傍から発見される例は西日本中心に散見され、その一事例として把握してよいかもしれない。


本尊岩座、二つの影向石、船繋石の疑問に関する諸説

石山寺の各縁起や名所図会では、石山寺境内に多くの岩石に関する旧跡が記録されている。

それらの文献調査をおこなった徳竹由明氏の研究(徳竹 2006年)によれば、石山寺の岩石の伝説には一部に齟齬矛盾が見られ、聖なる岩石の歴史がおそらく時代を経るにつれて変容してきたのではないかといくつかの問題提起がなされている。


1点目の疑義は、まさに石山寺の開基伝承にかかわる観音の岩座(八葉の宝石)の場所である。

以下仔細は徳竹氏論文を参照いただきたいが、氏いわく、同伝承の最古記述とされる10世紀末『三宝絵』では「昔、翁がいて釣りをした石があり、そこに観音をたてるように蔵王権現が良弁に示現した」のに対して、13世紀後半『石山寺流記』では「蔵王権現が良弁に近江国瀬田の南の一山へ行くように示現し、現地を訪れたところ石上で釣りをする翁に出会い、良弁が翁に霊地を問うたところ、翁は実は比良明神であり、この上に大岩石があると教えられてそこが観音の岩座となった」とある。

つまり、前者では翁が釣りをした岩石が石山寺本尊岩座になり、後者では翁の釣り石とは別で山上の岩石を石山寺本尊岩座としたという違いがある。

徳竹氏は、前者のほうが文献的に古い伝承であることから、元々は翁の釣り石が本尊の岩座とした当初の伝承が、おそらくは机上で成立した抽象的・観念的な伝承だったのではないかと推測する。

いざ年月を経て、現場で各伝説と旧跡の整合性を追究しだすようになると、本尊岩座がある山上にて翁が釣りをする湖沼は存在せず現実的ではないと判断されたことから、後年に観音の岩座と翁の釣り石を別々の岩石であると分離するに至ったという流れが導き出せる。

それが現在、石山の山下に立地してかつては湖畔にあったという比良明神影向石である。この石は井戸の井桁に組んだ石という形状をしており、この井桁内に岩石が隠されているともいうが、徳竹氏の表現を借りれば「不自然」で江戸時代中頃に「強引」に創出された聖跡だったのではないかと考察されている。

歴史学的に整合性のある論旨で私も同意であり、この点で、比良明神影向石は岩石祭祀の類型でいうところのCB類型(意図的に聖跡を設置したタイプ)に属することが、学術的にも裏付けられる稀有な事例と言える。

比良明神影向石

2点目の疑義は、船繋石の歴史がある時期を境に失われるという事実である。

船繋石は12世紀前半『七大寺巡礼私記』から19世紀初頭『木曾路名所図会』までの複数の文献に記される石山寺の旧跡だが、同図会以後から現代にいたるまでの石山寺関連の文献からは姿を消す特異な歴史を示す。

船繋石は、比良明神が釣りをする時に船を繋いでおいたという岩石であり、記述から山上の本堂あたりにあったと読みとれることから、山上に船を繋いで釣りをすることの非現実性から船繋石の存在感を薄める働きが起こった可能性が仄めかされている。

「現在では本堂の傍らの石のうちの何れが『船繋石』に該当するのか、或いは災害等何等かの理由で消失してしまったのか、定かではない」と徳竹氏は記し、どうやら専門家の中でも所在がわからない岩石になっているらしい。

そこで、私は石山寺を訪れた際に船繋石の所在について寺務窓口の方2名に伺ったが、お二方とも船繋石の名をご存知ではなかった。お一人はお寺の学芸員の方(宝物館の豊浄殿の学芸員の方か)に電話をつないでいただいたが、又聞き経由のお返事は「船繋石という名前は知っているが、みられない」という回答だった。どういう意味での「みられない」なのか窓口の方の言葉を介してだったので真意を把握できず、後日改めてご連絡をいただけるとのことだったので名刺を窓口に託して帰ったが、1か月経過した今も返事はなく多分忘れられたのだと思う。残念ではあるが、聞き取り調査に強引さがあってはならないため縁がなかったと考え、このままとしておく。


「みられない」は、たとえば本堂内にあって一般の人は見ることができないという意味なのかもしれないが、『石山寺流記』によれば船繋石は鎮守社(三十八所権現社)壇の前にある岩石で、上に小穴が開いていると書かれている。

三十八所権現社の前は特に本堂とは重なっておらず、基壇に岩盤が広がっている。岩肌斜面のため小穴を見つけることはできなかったが、この岩盤のいずれかあるいは全体を船繋石と呼ぶ可能性を指摘しておきたい。なぜならこの岩盤には特に他の名称が伝わっていないからだ。

三十八所権現社の前に広がる岩盤(斜面上から撮影)

最後に、徳竹氏論文では触れられていない問題として、石山寺には2つの影向石があることに触れておきたい。

『東海道名所図会』など各文献をつぶさに見ると、石山寺境内には「比良明神影向石」と「影向石」の2つの影向石が別々に記されていることに気づく。

比良明神影向石は、上記の伝承でいう翁が釣りをした石である。比良明神をまつる比良山麓の白髭神社の存在から比良明神は白髭の翁の姿で描かれることが多い。

なお、影向石とあるが当石を記した最古の記述である17世紀末『淡海録』では「白髭明神釣垂岩」の名で登場し、影向の表現ではなく釣りをした場所に比重が置かれている。


もう一つの「影向石」は、比良明神ではなく本尊観音が影向したという岩石である。

『東海道名所図会』には境内御影堂の西辺の八重桜と同じ場所にあると記され、前掲『石山のしほり』でも掲載順は御影堂と八重桜の間に影向石が紹介される。

しかし、紹介文は「観音この石上に影向す」の一文と簡潔であり、石山寺からすればこちらの影向石のほうが本尊にかかわる旧跡であり信仰の中心と言えそうなものだが、なぜか絵図にも図化されずマイナーな扱いを受けている。


御影堂と八重桜の場所は現在もはっきりしており、境内のいわゆる中央部、景観的には天然記念物の硅灰石が広がる一帯である。

国指定天然記念物「石山寺硅灰石」

斜面上方より撮影。

石山寺を代表するこの一大岩山をさしおいて、この一帯に候補はない。すなわちこの岩山は今でこそ硅灰石という近代的な名称で知られているが、かつてはこれこそが石山寺本尊が影向したという影向石だったのではないだろうか。


この影向石は伝承上では本尊岩座たる八葉の宝石と同じようにもみえるが、たとえば『石山のしほり』には本堂内の御座(八葉の宝石)と別で立項されており、先述のとおり位置的にも本堂内のそれを指さない。

本影向石の記述の少なさと相まって、そういう点では境内で一番目立つ硅灰石の岩山を新たに影向石と呼んで、比良明神影向石と同じように、本堂内に覆われる形で視覚的に見えなくなった八葉の宝石の代替的存在として登場したようにも思えるが、このあたりは私の想像の域を越えない。


その他の岩石

位置は冒頭に掲げたGoogleマップを参照。


■ 歴海尻掛石


龍穴(八大龍王社)
「龍穴の側にありいにしへに大徳に歴海和尚といふ人あり此石上に坐してつねに孔雀経をよみ給ひけるに龍王壇に昇り諸龍池中より出現して和尚を崇敬しけると。」(『東海道名所図会』)

■ 倚子石/安産の腰掛石
経蔵の床下に切りあう形で存在する。
「婦人の安産を祈る石といふ。(略)文保年中尼公一人参詣して此の石のまわりを自ら掘り顕はして多くの奇岩怪石を掘り出しき。此の尼何人といふとを知らざれとも寺家の壮観なれば彼が進退に任せて年月を経るに、後には此の石は観音の御本体、彼の石は何の菩薩何の佛など名け奉りて祭りける」(『石山のしほり』※引用文の略以下は『石山寺石記』と同内容)
倚子石のルビは「いすせき」「あんざんいし」の2種を確認している。

■ めかくし石(宝篋印塔)
「目隠ししてこの石を完全に抱けられれば初願成就と伝わっています。」(『石山寺の霊験あらたかな石の物語』)

■ 三十八所権現社の岩盤

「岩の上にたてり」(『近江名所図会』)
社下のこの岩は、先述の船繋石と同位置を指すと思われる。


■ 龍蔵権現社の岩盤
「龍の背のように露出している硅灰石の上に建つ。」(石山寺の霊験あらたかな石の物語)

■ くぐり岩

「硅灰石でできた自然の穴。願いごとを想いながらくぐると叶うと言われる不思議な場所です。」(『石山寺の霊験あらたかな石の物語』)

■ 天智天皇の石切り場

「ここで切り出された石材が、660年頃に飛鳥四大寺のひとつである川原寺の礎石として運ばれました。」(『石山寺の霊験あらたかな石の物語』)

2012年に考古学的な調査で裏付けがなされており、石山寺開基前の歴史の一端が垣間見える存在である(滋賀県文化財保護協会サイト)。


参考文献

  • 鷲尾遍隆[監修]・綾村宏[編]『石山寺の信仰と歴史』思文閣出版 2008年
  • 杲守僧正「石山寺石記」 続群書類従完成会[編]『温古随筆』第12號(皇紀2589年4月號),続群書類従完成会,昭4至5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1261386 (参照 2024-06-23)
  • 松井心海『石山のしほり』,私家版,明33.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765403 (参照 2024-06-23)
  • 横田隆志『中世長谷寺の歴史と説話伝承』和泉書院 2023年
  • 松崎照明『山に立つ神と仏―柱立てと懸造の心性史―』講談社 2020年
  • 石橋茂登「銅鐸と寺院―出土後の扱いに関して―」『千葉大学人文社会科学研究』21号 2010年
  • 德竹由明「石山寺開基伝承の変容過程―「船繋石」・「比良明神影向石」に関して―」『中京国文学』第25号 2006年
  • 秋里籬島[編]『東海道名所図会』上冊,吉川弘文館,明43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765194 (参照 2024-06-23)
  • 秦石田, 秋里籬島ほか[編]『近江名所図会』,柳原書店,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569190 (参照 2024-06-23)
  • 一般社団法人石山観光協会発行『石山寺の霊験あらたかな石の物語』(パンフレット)
  • 「新近江名所圖会 第144回 やっぱりあった!! 古代の石切場跡 ―石山寺―」(滋賀県文化財保護協会ホームページ)


2024年6月16日日曜日

龍鎮神社(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市 深谷龍鎮渓谷


龍鎮神社境内を上方より撮影。

龍鎮神社。深谷川対岸から拝する形をとる。

龍鎮滝

現地看板によると、当地の滝壺から水を汲みだして、古大野岳(標高578m)頂上の善女龍王に松明を持って日没後に登拝し、下山後に麓の海神社でいさめ踊りを奉納する「壺かえ」の儀礼が伝わる。


「龍鎮渓谷」の名称は1970年代の書籍から見られるが、「龍鎮神社」「龍鎮滝」ではそれ以前の文献から探し当てることはできなかった。

ここ数年でパワースポットとしての知名度が大いに高まった場所の一つだが、聖地の歴史として原像がどのようなものであったかを確かめるのは難しく、また、現在の聖地ブームの中で大なり小なり変容していくことが予想される。


宇陀・室生一帯では室生山・室生龍穴を中心に雨乞いの風習が盛んで(『室生村史』)、各地区にそれぞれの雨乞い行事が存在する。

室生においては雨が降らない時に、松明を持って近くの一番高い山に登るダケノボリの類型が確認されており、龍鎮神社の雨乞いもその文脈の中で語ることができるだろう。


龍鎮滝は上と下に分かれ、上を上龍鎮・青龍神と呼び、下を下龍鎮・赤龍神と呼ぶらしい(「ようおこし室生の里へ~みどころマップ~」)。


参考文献

  • 室生村史編集委員会 著『室生村史』,室生村,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3021014 (参照 2024-06-13)
  • 「ようおこし室生の里へ~みどころマップ~」https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/murounosatomidokoromap.pdf(参照 2024-06-13)


2024年6月9日日曜日

白石國津神社の白石(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁白石町 字神子尻

 

都祁には國津神社が二社ある。北部の白石地区の國津神社と、南部の南之庄地区の國津神社であり、本項では地区名を採って便宜的に白石國津神社と記す。

白石國津神社

白石明神は地より生えた白い石が神体であるので、白石と改めたという。又古記には南殿の國津神社を移して祀ったから白石と云うとあるが果して南殿すなわち南之庄より奉還したか否か定ではない。古老の話では、南殿より六人衆が石を持って帰った処、急に動かなくなって、それを神体としたともいう。(大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』2010年再発刊)

前掲の文献によれば、白石國津神社は地より生えた白い石を神体とするという説と、南之庄國津神社から石を運んでここにまつった説に分かれており決着はついていないらしい。

なお、南之庄國津神社の裏山には「柏峯」と呼ばれる小丘があり、小川光三氏が類推するには山容が梯形にならされて方形に岩石を囲んだような形跡がみられるとして、祭壇遺構説も呈されたいわくつきの地である(小川 1984年)。


さて、白石國津神社境内に目を移すと境内中程の参道脇に白い石が2個ほど置かれ、周りを垣で囲んだ場所がある。


いかにも白石の名に相応しい雰囲気を見せるが、神体石は「社殿の下」と明記する文献もあり齟齬がある(『大和の伝説』1959年)。


はたして正確なところはどこにあるのか、白石國津神社と祭礼時に神幸のある雄神神社前に代々在住の東山さんから次のお話を伺うことができた。

  • 白石國津神社の名の由来となった白石は、現・本殿の下にたしかにある。
  • 本殿を建てた人と宮司しか見られない存在で、神遷しの際も本殿周りには白い幕を張り、岩石を見ることはできない。
  • 本殿には床がない状態で白石が覆われているという。
  • 境内参道脇にある2個の岩石は、由来となった白石ではまったくない。自分(東山さん)が子どもの頃にはあのような岩石はなく、だれかがどこかから持ってきてあそこに置いた。昔は垣もなかったのに、多分地区の誰かによるものだと思うが今のように整えられてしまった。

本殿遠景。この中に白石がまつられる。

本来の神体石が目に見えない一方で境内参道脇の白石が視覚的に目立つため、後世に勘違いの原因にならないかと東山さんは深い懸念を示されていた。

前掲の小川氏著書においても、「国津社の鳥居をくぐると、参道の中央に二本の杉が立ち、その間に小さな白い石が一個置かれている」(小川 1984年)という記述がみられ、1個の岩石の写真が掲載されている。「二本の杉」の間という点から位置的に同一のものを指すと思われ、約40年前には1個の岩石だったのが2024年時点では2個に増えて垣に囲われた流れが描き出せる。

東山さんが子どもの頃はおそらくそれより半世紀以上前の話であろうから、記憶のとおりであれば元々そこになかった岩石を小川氏は取り上げたことになる。このように、岩石信仰の現状の景観からあれこれを想像することの危うさを示す出来事と言えるだろう。

以上、白石國津神社の歴史に関わる重要な情報としてここに記しておく。


参考文献

  • 大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』私家版 2010年(原著1982年の再発刊)
  • 小川光三 著『大和路散歩ベスト8』,新潮社,1984.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575464 (参照 2024-06-09)
  • 高田十郎 等編『大和の伝説』,大和史蹟研究会,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9580621 (参照 2024-06-09)