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2025年1月26日日曜日

立石/立石様/活蘇石(東京都葛飾区)


東京都葛飾区立石


葛飾立石の地名の由来となった岩石。
石の露頭が地上から少し顔を出すくらいの、小さな石である。


石が立つという名前負けしているように思えるが、『江戸名所図会』に描かれた立石の姿は、現在のものよりも高さがある(といっても高さ一尺と記されるので約30㎝)。

立石稲荷神社

立石

なぜ小さくなったのかについては、長年の風化による説のほか、立石を打ち欠いて飲めば病が快癒するという一種の信仰習俗がかつてあって、その結果小さくなった可能性がある。


「立石」の地名はすでに、応永5年(1398年)の『下総国葛西御厨注文』に登場することから、少なくとも室町時代には立石が特別視された存在だったことが推測される。

江戸時代には、寒くなると石がどんどん欠けていくが、暖かくなると元の状態に戻る奇石として知られた。

文化2年(1805年)には地元の人々が、石の下はどうなってるのかと掘り進めたが石の根元は見えず、掘った人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで祠を設け、立石稲荷神社としてまつるようになったという。

南蔵院所蔵旧記から写したという『持高』文政6年(1823年)に立石稲荷大明神の記述があり、そこには「神体活蘇石」の名称で記される。


鳥居龍蔵博士はこの「活蘇石」の名称に注目し、活蘇とは石が生きているという信仰を伝える証左であり、巨石文化研究に傾注していたことから立石を低地帯には珍しい「メンヒル(巨石文化における立石の事例)」とみなした。

その後、大場磐雄博士は「磐座=盤石状」「石神=立石状」という構図に当てはめ、立石を石神事例の1つであると考えた。


全国の石神事例と比して珍しいと思う点は、元は珍奇・好奇・特別視の対象から始まっていて、それが崇りによって畏敬の対象に昇華し、その後、石を欠く習俗によって親近的な信仰に、人々の感情が波打つように変遷してきたところにある。

元来は畏敬の対象だったものが、時代を追うごとに畏れを減じて親近・好奇の対象に変わるという一直線的な変遷はままあるが、あたかもジェットコースターのように感情の起伏が激しい立石は独特である。


ちなみに、この立石の石種は千葉県安房郡南鋸町の鋸山周辺でしか採れない房州石という鑑定結果があり、近くには房州石を用いて石室を構築した古墳があることから、立石は古墳の石室石材だったのではないかという見方もある。
立石の地中をレーダー探査したところ空洞構造が検出されたことから、古墳が埋没しているのではないかともされている。


京成電鉄立石駅のホームには立石の説明板とレプリカが置いてあり、こちらも一見の価値がある。


参考文献

  • 鳥居龍蔵「武蔵野のメンヒル」『鳥居龍蔵全集』第2巻,朝日新聞社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12143265 (参照 2025-01-26)
  • 大場磐雄「日本に於ける石信仰の考古学的考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年
  • 現地看板


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