京都府京都市北区西賀茂船山
霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。
以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。
―――
今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。
ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。
同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。
こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。
巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。
これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在するのだと語り伝えられたという。
―――
巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する気移りのあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。
仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。
さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。
霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。
川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。
このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。
寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。
今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)
ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。
ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。
前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。
いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。
また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。
最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。
先日、平安京周辺の山林寺院巡りということで、北区の西賀茂妙見堂遺跡を踏査してきました。
— 立命館大学考古学研究会@3月末『松尾山寺遺跡調査報告書』刊行 (@koukoken305) January 19, 2025
山中に複数の平坦地の展開が確認できた他、寺域背後に巨大な岩体の露頭が見られるなど、松尾山廃寺を検討する上でも参考になる遺跡でした。#考古学 #サークル #立命館 #山林寺院 pic.twitter.com/VwJ840HBUa
妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。