2025年3月19日水曜日

自然石文化における岩石文学作品集『書物の王国⑥ 鉱物』メモ

『書物の王国⑥ 鉱物』(国書刊行会 1997年)は、巻末の解題を記した高原英理氏によると、氏が責任編者になって選定した鉱物に関する古今東西の選集である。

高原氏自身が「私の伝えたいヴィジョンはひとまずここにある」(p.221)と認めるとおり、体系的な基準で編まれたものというより、鉱物に惹かれた高原氏の「癖」と、版権・訳書・紙幅の力学によって計36の作品が収録された。

鉱物に惹かれるものの共通項として、高原氏は次の表現で言葉に言い表している。

  • 自己に囚われたくないとする客観志向
  • 静謐なものへの憧れ
  • 人間を離れたがる傾向
  • 永遠志向
  • 生き物である人間が無機物を前にして、到底かないそうにないと無視できなくなったときの慌てぶり

客観したがる傾向は私のことかとドキッとしたし、4つ目の「無視できなさ」は岩石への特別視の共通項として見逃せない重要なキーワードのように感じる。


本書は「鉱物」括りなので自然石以外の鉱山鉱石・水晶・宝石などのモチーフも含まれるが、自然の石・岩をモチーフにしてつくられた作品も多い。

その意味において、自然石文化における一角に自然石から触発された物語があることは否めない。いわば神話もその一種であり、物語化の末に信仰も生まれると言える。そのような視点から本書掲載の作品を敷衍したい。

高原氏の解題分類に沿って、自然石に関わる部分に限って注目的な記述を紹介する。

※過去記事ですでに取り上げた作品は除外。


神話・伝説・民間伝承ブロック

ジョルジュ・サンド「馬鹿石、泥石」

フランス中どこでも大石は農民の想像力を刺激している。(p.123)

石はときと場合によっては口をきくにちがいないと思われている。(略)しかし石たちは頑固で偏狭なので、それ以上の言葉を教えることはできない。ときには、その近くを通っても石が見えないことがある。というのは、実際、そこにいないからなのだという。(略)彼らは性悪な以上に馬鹿なので、ときどき居場所をまちがえる。前の晩には荒地に転っていた石が翌日は同じ時刻に、種をまいた畑に立っていたりする。作物はだめになる。柵もこわされる。しかし、そのばあい、地主には言わないほうがいい。(略)石のほうでもいずれは元の場所へ戻らなければならないことになっている。もしすぐに元の場所が思いだせなかったら困るのは石のほうなのだ。(p.125)

葛洪「石随」

神山は五百年にして開き、その中から石随が流れ出る。これを服すれば、その寿命は天とともに終わる(pp.50-51)

蒲松齢「石を愛する男」

天下の宝は、これを愛惜する人に与えらるべきです。この石もいい持ち主を見つけたというもので、私もうれしく思います。だがこの石は自分から世に出ることをいそぐのです。世に出ることが早いと、魔劫がまだのぞかれないのです。(略)並すぐれた物は、禍のもとである。身をもって石に殉じようとするにいたっては、執着もまた甚だしい! だが結局は石が人と最後までいっしょになっていたのだから、石に情がないなどとだれが言えようか!(pp.55-57)


日本の怪談奇談ブロック

根岸鎮衛「石中蟄龍の事」

「左様に怪しき石ならば、如何なる害をなすやも知れぬ。焼き捨つるがよかろう」と述べたが、「それはとんでもない事」と斥け、結局、人家より離れた所に一宇の堂社があるゆえ、そこに納めるのがよかろうと決した。一同は件の堂社へ赴き、石を納め置いて帰った。然るにその夜、件の堂中より雲を起し豪雨を降らせ、風雨雷鳴と共に上天するものがあった。後刻、堂社に到り検分したところ、かの石は二つに砕け、堂の様子は全く龍の昇天した跡の体であったと、邑中の者が奇異の思いをなした。その節、「石を焼くべし」と発言した者の家宅は微塵になったという。(pp.71-72)


鉱物をめぐる思想・随想ブロック

アンドレ・ブルトン「石の言語」

石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もうとらえて離さなくなるのが常である。(p.149)

おなじ道すじをゆくふたりの人間でも、両者が奇妙に似かよっているのでないかぎりは、おなじ石を拾いあつめることはできないはずだ、と私には思われる。ことほどさように、たとえまったく象徴的なかたちでしかみたされない状況であるにせよ、人は深層でなにか欲求を感じた対象だけを発見するものなのだ。(p.151)

ためらいこそ、こうした石に、「自然の気まぐれ」と芸術作品とのあいだの、ひとつの鍵としての位置をさずけがちなものである。(略)人間はみずからのもっとも貴重な特質のいくつかを放棄したことによって、石たちを残骸とみなしおおせることができたのだと思われる。石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。(p.154)

ピエール・ガスカール「鍾乳石」

何ともわけのわからぬ重なり方や曲がり具合のせいで、石の形は、個々に見ようが全体として見ようが、全然定義できず、幾何学の法則に還元できず、したがって記述できない。(略)鍾乳石や石筍の形成を支配する非合理なるものは、原始芸術を支配する非合理に近い。(p.155)

石に新しい名前をつけ、それを通じて洞窟の各部をも新たな名称で呼ぼうとするのは、多分この洞窟が自分たちのものだということを確認し、また洞窟に寄せているひそかな期待を表明するためでもあろう。だが遠慮からか、内心を見すかされるのを嫌ってか、どんな名前にも満足できず、やがて思いついたのは、石とそれを容れている広間を単なる番号で呼ぶことであった。(p.160)


日本の小説ブロック

稲垣足穂「水晶物語」

路ばたの石も、海岸の石も、共に永い永い歴史を持っているのだと云わなければならない。(略)ただひとり石や砂だけがずっと続けて昔通りだ――これは何故であろう。おしまいのそのおしまいに石はどうなるのか。この同じ場所に再び埋まってしまうならば、その次に自分のような者によって拾い上げられるまでには、きっと何万年かが経過している。それでも石は目立つほどに小さくなっているわけであるまい。更に次回に何万年が続く……とうとう粉微塵になる時がきたところで、その粒の一つ一つには永い歴史の記憶が含まっている。(p.36)

日野啓三「石の花」

石を集め出してみるとそれは思いがけなくきれいな鉱物があって、そのうちにこんな石の話の花園ができてしまったんですね。石の花なんて言ったって、死んだ石ころじゃないかとおっしゃるのですか。まあ、そんなことを。結晶もスクスクと成長するにでございますよ。(p.139)

「物質の深みに封じこめられている何かと、われわれの意識の奥に閉じこめられている何かとは、もしかすると同じものかもしれない」「わたしたちが石の花を育て咲かせようとしていることは、そうすると、わたしたち自身のなかの新しい何かを解き放つことでもあるのですね」(p.140)


詩歌ブロック

オハマ族の歌「岩」

かぎりなく遠い むかしから じっと おまえは休んでいる 走る小路のまんなかで 吹く風のまんなかで(p.135)


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