2025年4月12日土曜日

いぼ石/いぼ神様(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市中野方町

2010年撮影

中野方の福地境と、大峰に天然水のたまったくぼんだ石がある。その水をつけるとイボがとれるといういい伝えがある。

恵那市史編纂委員会 編『恵那市史』恵那のむかしばなしとうた,恵那市,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536746 (参照 2025-04-12)

現地看板によれば、雨水がたまって木の葉などが溶け込んだ窪みだったので、水は腐って真っ黒だったという。それがなぜかイボや皮膚病に効くということで、「いぼ神様」として神格化に至った例である。

1993年、峠道が二車線に拡幅された際にいぼ石が道にさしかかってしまったため、いぼ石の上部だけを切り取って車道脇に移設し、昔のよすがを偲ぶ措置がとられた。


2025年4月6日日曜日

「情報募集中」の場所を最新の内容に更新しました

当ブログで古くから呼びかけをしている「情報募集中」のページを更新しました。

この数年間に生まれた各種の謎についても追記しております。


【情報募集中】探しています

私は、インターネットで多くの方々から得難き情報をいただき続けてきました。

そのうえでさらなる情報を求めるのは欲張りですが、まだまだインターネット上でお会いできていない先達の方、地元の方がいらっしゃると信じています。

私なりにまとめた情報もたまってきて複雑怪奇となっていますが、お時間が許しましたら内容をご覧いただき、お持ちの情報をどしどしお寄せください。


小六石(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町境

 


 昔、武田信玄の家臣に牧場田小六という人があり、天文年間の甲越戦争の際、この地に小屋を構えて居住し、農耕のかたわら諏訪側の状況を偵察、この小六石を目標とさせ、やがて来る甲州軍の使者に情報を伝える使命を帯びていた。この牧場田小六の名前をとって小六石といっている。また、小六という部落名もこれからとったと伝えられている。
 別の話として享保時代名僧が、旅より旅へ托鉢してこの地に足をとどめた。ちょうどこの地方に悪質の病がはやり、僧はこの石の上に三七、ニ十一日の間座ってその病気の祈祷をした。石の部分の穴は、僧の精神の集中力が汗と化し、その汗のひとつひとつが固い石をうがったといわれている。

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2025-04-06)


現地看板には「岡田小六」の名で記されており、名前には揺らぎがあるようだ。

前段の武田家の伝説は特別視の対象としての岩石であるが、後段の石を穿つ伝説は構想が祈祷に用いた祭祀の場としての岩石であり、堅固性の象徴である岩石を逆手にとった精神性が石肌の特徴と絡めて伝承されている。


2025年4月1日火曜日

「石を持ってみた」掲載(『パッション』第76号)

四日市市文化協会発行の『パッション』第76号に、「路傍の自然石考⑯ 石を持ってみた」が掲載されています。

冊子体は四日市市文化会館などで頒布しています。


2025年3月29日土曜日

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

2025年5月25日~30日に開催される、日本地球惑星科学連合2025年大会で、「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」と題したポスター発表を行います。

私が所属する文化地質研究会のセッション「変動帯の地質と文化」の中で参加します。

セッション「変動帯の地質と文化」では,とくに日本列島のような変動帯に生きる人々の生活や文化・文明が,地質とどのように関わってきたか,そして現在もどのように関わっているか,幅広い視野での研究成果を提示する.たとえば,(1)石材などの材料・資源とその由来,(2)考古遺物の分析と由来,(3)日本列島や地域の固有文化と地質の関わり,(4)博物館やジオパークなどでの啓発普及・教育実践,(5)地質に関わる文学や哲学,(6)山岳霊場や岩石信仰など宗教と地質との関わり,などについての研究発表である.これらの人と地質との関わりを論じた研究成果に加え,市民活動の報告を幅広く示すことで,私たちが変動帯に位置する日本列島で生きることの意味を総合的に議論したい.

https://confit.atlas.jp/guide/print/jpgu2025/session/O05_25PO1/detail


初日の5月25日(日)、幕張メッセ国際展示場7・8ホールがポスター会場です。

私は現地参加せずオンラインでの参加です。また、招待講演と書いてありますが特に講演はしません。

オンライン上の大会サイト「Confit」にてポスターを掲示します。当日のコアタイムとされる17:15〜19:15の間、ポスターをご覧になった方からの質疑に応答するつもりです。

https://confit.atlas.jp/jpgu2025?lang=ja


日本地球惑星科学連合(JpGU)は地球惑星科学(地学)に関する学会・協会が参加する組織です。

基本的に所属学会・協会経由でJpGUのIDを取得して参加する形ですが、初日5月25日(日)だけはパブリックセッションデーとされ、一般の方も所定の手続きで参加可能と聞いています(詳細はまだ公開されていないので不明)。


5月16日に大会予稿集のpdfファイルが公開予定なので、その時にまた詳細をお知らせいたします。

というよりこれからポスターの内容を詰めます。5月まではポスター作成に勤しむことになりそうです。


2025年3月19日水曜日

自然石文化における岩石文学作品集『書物の王国⑥ 鉱物』メモ

『書物の王国⑥ 鉱物』(国書刊行会 1997年)は、巻末の解題を記した高原英理氏によると、氏が責任編者になって選定した鉱物に関する古今東西の選集である。

高原氏自身が「私の伝えたいヴィジョンはひとまずここにある」(p.221)と認めるとおり、体系的な基準で編まれたものというより、鉱物に惹かれた高原氏の「癖」と、版権・訳書・紙幅の力学によって計36の作品が収録された。

鉱物に惹かれるものの共通項として、高原氏は次の表現で言葉に言い表している。

  • 自己に囚われたくないとする客観志向
  • 静謐なものへの憧れ
  • 人間を離れたがる傾向
  • 永遠志向
  • 生き物である人間が無機物を前にして、到底かないそうにないと無視できなくなったときの慌てぶり

客観したがる傾向は私のことかとドキッとしたし、4つ目の「無視できなさ」は岩石への特別視の共通項として見逃せない重要なキーワードのように感じる。


本書は「鉱物」括りなので自然石以外の鉱山鉱石・水晶・宝石などのモチーフも含まれるが、自然の石・岩をモチーフにしてつくられた作品も多い。

その意味において、自然石文化における一角に自然石から触発された物語があることは否めない。いわば神話もその一種であり、物語化の末に信仰も生まれると言える。そのような視点から本書掲載の作品を敷衍したい。

高原氏の解題分類に沿って、自然石に関わる部分に限って注目的な記述を紹介する。

※過去記事ですでに取り上げた作品は除外。


神話・伝説・民間伝承ブロック

ジョルジュ・サンド「馬鹿石、泥石」

フランス中どこでも大石は農民の想像力を刺激している。(p.123)

石はときと場合によっては口をきくにちがいないと思われている。(略)しかし石たちは頑固で偏狭なので、それ以上の言葉を教えることはできない。ときには、その近くを通っても石が見えないことがある。というのは、実際、そこにいないからなのだという。(略)彼らは性悪な以上に馬鹿なので、ときどき居場所をまちがえる。前の晩には荒地に転っていた石が翌日は同じ時刻に、種をまいた畑に立っていたりする。作物はだめになる。柵もこわされる。しかし、そのばあい、地主には言わないほうがいい。(略)石のほうでもいずれは元の場所へ戻らなければならないことになっている。もしすぐに元の場所が思いだせなかったら困るのは石のほうなのだ。(p.125)

葛洪「石随」

神山は五百年にして開き、その中から石随が流れ出る。これを服すれば、その寿命は天とともに終わる(pp.50-51)

蒲松齢「石を愛する男」

天下の宝は、これを愛惜する人に与えらるべきです。この石もいい持ち主を見つけたというもので、私もうれしく思います。だがこの石は自分から世に出ることをいそぐのです。世に出ることが早いと、魔劫がまだのぞかれないのです。(略)並すぐれた物は、禍のもとである。身をもって石に殉じようとするにいたっては、執着もまた甚だしい! だが結局は石が人と最後までいっしょになっていたのだから、石に情がないなどとだれが言えようか!(pp.55-57)


日本の怪談奇談ブロック

根岸鎮衛「石中蟄龍の事」

「左様に怪しき石ならば、如何なる害をなすやも知れぬ。焼き捨つるがよかろう」と述べたが、「それはとんでもない事」と斥け、結局、人家より離れた所に一宇の堂社があるゆえ、そこに納めるのがよかろうと決した。一同は件の堂社へ赴き、石を納め置いて帰った。然るにその夜、件の堂中より雲を起し豪雨を降らせ、風雨雷鳴と共に上天するものがあった。後刻、堂社に到り検分したところ、かの石は二つに砕け、堂の様子は全く龍の昇天した跡の体であったと、邑中の者が奇異の思いをなした。その節、「石を焼くべし」と発言した者の家宅は微塵になったという。(pp.71-72)


鉱物をめぐる思想・随想ブロック

アンドレ・ブルトン「石の言語」

石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もうとらえて離さなくなるのが常である。(p.149)

おなじ道すじをゆくふたりの人間でも、両者が奇妙に似かよっているのでないかぎりは、おなじ石を拾いあつめることはできないはずだ、と私には思われる。ことほどさように、たとえまったく象徴的なかたちでしかみたされない状況であるにせよ、人は深層でなにか欲求を感じた対象だけを発見するものなのだ。(p.151)

ためらいこそ、こうした石に、「自然の気まぐれ」と芸術作品とのあいだの、ひとつの鍵としての位置をさずけがちなものである。(略)人間はみずからのもっとも貴重な特質のいくつかを放棄したことによって、石たちを残骸とみなしおおせることができたのだと思われる。石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。(p.154)

ピエール・ガスカール「鍾乳石」

何ともわけのわからぬ重なり方や曲がり具合のせいで、石の形は、個々に見ようが全体として見ようが、全然定義できず、幾何学の法則に還元できず、したがって記述できない。(略)鍾乳石や石筍の形成を支配する非合理なるものは、原始芸術を支配する非合理に近い。(p.155)

石に新しい名前をつけ、それを通じて洞窟の各部をも新たな名称で呼ぼうとするのは、多分この洞窟が自分たちのものだということを確認し、また洞窟に寄せているひそかな期待を表明するためでもあろう。だが遠慮からか、内心を見すかされるのを嫌ってか、どんな名前にも満足できず、やがて思いついたのは、石とそれを容れている広間を単なる番号で呼ぶことであった。(p.160)


日本の小説ブロック

稲垣足穂「水晶物語」

路ばたの石も、海岸の石も、共に永い永い歴史を持っているのだと云わなければならない。(略)ただひとり石や砂だけがずっと続けて昔通りだ――これは何故であろう。おしまいのそのおしまいに石はどうなるのか。この同じ場所に再び埋まってしまうならば、その次に自分のような者によって拾い上げられるまでには、きっと何万年かが経過している。それでも石は目立つほどに小さくなっているわけであるまい。更に次回に何万年が続く……とうとう粉微塵になる時がきたところで、その粒の一つ一つには永い歴史の記憶が含まっている。(p.36)

日野啓三「石の花」

石を集め出してみるとそれは思いがけなくきれいな鉱物があって、そのうちにこんな石の話の花園ができてしまったんですね。石の花なんて言ったって、死んだ石ころじゃないかとおっしゃるのですか。まあ、そんなことを。結晶もスクスクと成長するにでございますよ。(p.139)

「物質の深みに封じこめられている何かと、われわれの意識の奥に閉じこめられている何かとは、もしかすると同じものかもしれない」「わたしたちが石の花を育て咲かせようとしていることは、そうすると、わたしたち自身のなかの新しい何かを解き放つことでもあるのですね」(p.140)


詩歌ブロック

オハマ族の歌「岩」

かぎりなく遠い むかしから じっと おまえは休んでいる 走る小路のまんなかで 吹く風のまんなかで(p.135)


2025年3月16日日曜日

木村重信「石と日本人についての芸術的考察」(『日本人と石』より)

株式会社エス出版部より編集・発行された『日本人と石』(1992年)は、「第1部 心」「第2部 技」「第3部 西洋との出会い」の3部に分かれて、石に関する信仰・芸術・石造技術・建築を中心に構成された全144ページの写真集である。

今となっては出版意図がつかめないところがあるが、バブル崩壊直後、出版不況の入口に立ちつつも、英対訳を載せた豪華版で西洋文明の公害化に対する警句も散りばめられた一種の時代感がふんだんである。

巻頭言を飾るのが国立国際美術館長の木村重信氏「石と日本人についての芸術的考察」である。これが短文ながら、石と人間の関係を芸術分野から考える際の有効な資料となるので、次の記述を紹介する。


日本の芸術家は、石に対して付加する述語ではなく、主語である石そのものの実存を問題にする。したがって欧米の彫刻がひとつのコンストラクションであるとするならば、日本の石庭はかかるコンストラクションを否定し、いわばアレンジするだけである。欧米的芸術観ではアレンジしただけでは芸術にならず、コンストラクトして初めて芸術となる。しかし日本人はそうは考えず、アレンジメントこそ重要な芸術的契機であるとする。(略)アレンジメントには、いけばなの場合も、石庭の場合も、自然のものをどのように組み合わせても、もの自体は自然を越えることはできないという考えがひそんでいる。(同書p.13)


「日本の芸術家は~」「日本人は~」などの主語が大きく、学術的にデータを明示した論拠になっていない。言い換えれば西洋=人工、東洋=自然を貴ぶとする1992時点の構図であり、それ以降相対主義が進んだ2025年現在では人口膾炙の文明観と言えるが、アレンジメントの概念は今なお参考となると思う。

自然が主語であり、アレンジメントは自然を越えることがないという木村氏の見方は、そのまま、自然の石のままの方が芸術になりうるという許容を生み出し、なぜ自然石の石肌をそのままにして置いたか、石を動かしても自然芸術として鑑賞されたのはなぜか、の回答となる。

また木村氏は、自然がもたらす「偶然性」が鑑賞者に自由を確保することにつながり、鑑賞者の感受性や想像力いかんで芸術としての価値は大きくも小さくも変化し、その鑑賞作用によってある人には作品となり、ある人には作品となりえないというところに自然の美があるという鑑賞観を提示している。

美の認定も人の心理ありきで、自然物は「偶然性」が「美の訴え(契機)」となる論理は、自然石信仰を含めた自然石文化を考える上での重要な指標となるだろう。


「変身する空間――石」(岩田慶治『草木虫魚の人類学』より)

岩田慶治『草木虫魚の人類学』(講談社 1991年)の第2章第2節が「石」であり、海外のアニミズム(草木虫魚教)に関する石の事例を取り上げている。


ニュージーランドのマオリ族

緑石を加工して石器を作る。

日常使用は打製石器のままでよいが、加工と研磨を加えたものは装飾品となる。

それらの中で、何世代にもわたり研磨されたものは、労力の結集、祖先伝来の宝器となり、子孫の礼拝を受ける。

これは石が石でなくなり、石のメタモルフォ―ゼと岩田氏は形容する。

自然石信仰とはまた異なる、加工された石に対する信仰と言える。


ボルネオ内陸に住むケラビット族

インドネシア領カリマンタンとの国境地帯に多くの巨石が残るといい、ケラビット族の所産とされる。

バトゥ・ナンガンとバトゥ・シノパッドという二種類の巨石構造物を作る(バトゥは「石」の意)。

村人の話によると、バトゥを作ることで個人の霊を慰め、個人の霊魂がさまよわないようにするためだという。

ケラビット族は4種類の階級に分かれていて、バトゥを作るのは第一階級のみという。


バトゥ・ナンガン

ナンガンは「支える」の意。大石を数個の石で支えたもの。いわゆるドルメン型の構造物。

生前に功績を残した人物や首長を記念して、死後に村人が建てる。


バトゥ・シノパッド

シノパッドは「立てる」の意。細長い石を地上に垂直に立てたもの。いわゆるメンヒル型の構造物。

祖父母、父母の死後に子孫が建てる。


バトゥを作る時のルール

個人の記憶が残る死後1~2年のうちに行う。

バトゥの立地は、山地だが村人がよく通る場所が選ばれる。峠道が多い。

村人が結集して石をその山地に運ぶ。

七日七夜にわたる祭りを行う。故人の思い出を語り、家畜を屠り供えて、村人全員で共食の後に歌と踊りを連日行う。


興味深いこととして、現在のケラビット族はバトゥを作らないが、それ以外は今も同様の祭りを行うということで、石は主役ではなくなっている。

岩田氏は「石はカミの依り代でありえたのだろうか」という疑問を投げかけているが、その答えは明言されていない。


ドルメン、メンヒルに属する巨石文化の典型的事例として語られるものだろう。


2025年3月9日日曜日

霊巌寺の巌廉(京都府京都市)


京都府京都市北区西賀茂船山


霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。

以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。

―――

今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。

ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。

同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。

こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。

巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。

これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在する(所ニ随ヒテ験モ有ケル也)と語り伝えられたという。

―――


巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する移り気のあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。

仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。しかし「所ニ随ヒテ験モ有ケル也」として無視できなかったのである。


さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。

霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。


川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。

このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。


寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。

今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)

ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。

ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。

前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。

いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。


また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。

最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。

妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。


2025年3月4日火曜日

佐藤宗太郎『石仏の解体』(1974年)メモ

『石仏の解体』目次

佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林 1974年)は、石仏に対する世間の風潮に疑問を呈した本として読む前から注目していた。

思想家の吉本隆明が序文を寄せ、「なぜ対象は<石仏>でなければならなかったのか? <石>の造型でありさえすれば何でもよかったのではないか、というαでもありωである問いが、佐藤宗太郎にのこされるようにおもわれた」(p.13)と、佐藤氏が石仏に惹かれてしまった主観的な部分と冷徹に石の要素を構造化しようとした二つの心の葛藤で書かれた作品と評する(この序文は、本文を読んだ後に読まれるべき性質の文である)。


当時、佐藤氏は石仏を撮る写真家だった。最初は石仏にただ惹かれて写真を撮り続け、誰かのセンチメンタルな言葉を借りて石仏をわかった気持ちでいたが、その危なさに気づいて本書を書くことになった。

本書に通底するのは、石仏を自分の心の慰みものとして叙情的に語らず、あるいは仏教的・美術的など一角に寄らず、石の「造形(かたち)」を細かく分解・分析して、石と石仏の精神的関係を追い求めようとした思索である。

「石仏」を「磐座」「巨石」などに替えれば、恐ろしいほど現代人が再生産している人の性(自分の主観を対象に重ね合わせる)に対する忠告と言える。


本書の読後感としては、たとえば第1章はインタビュー形式で構成され一見平易に読めるが、「~的」「~性」などの抽象的な語彙がふんだんで、それぞれの語彙の定義がはっきりしていないため読みながら意味をとりづらい部分がある。佐藤氏自身が本書を書きながら思索を重ねているからだろう、本書の前半と後半で考えを訂正している箇所さえある。

また、石仏の事例は多く取り上げられ具体的だが、核心に触れる部分はデータ(石仏のポテンシャルを数値化するくだりはあるが、主観を数値化したものなので定性)に基づいた話ではなく随想・直観による論旨のため、言い過ぎや意味を持たせすぎの面もある。佐藤氏自身は章題に「私情」と書いており自覚的と思うが、言語化されていないものを言語化し過ぎようとしていて、すべてに意味を持たせようとしたことが逆に正確さから離れるように感じた。

したがって、万人が読んで納得するものとはなっていないが、本書の石仏を巡る哲学的提言は現在も未解決の問題提起ばかりである。そこに本書の唯一無二の意義がある。

ということで、あくまでも岩石の精神に関する部分に限って、以下注目すべき記述を引く。


「何気なく、ただひっそりとたた佇む名もなき石の仏」「その姿や表情の素朴な美しさ」「言うに言われぬ親しみ」「石仏に接すると心が洗われる」「石仏はこころのふるさと」等々々――。これらは石仏を愛する人々の言葉である。実は筆者が石仏行脚を始めたころ、既にそのように言われていたし、筆者も当初は全く同じ言葉を使って石仏を賛美していた。だが、こうした石仏の愛し方や見方は間違いではないけれど、本当に石仏の価値や内容を認めていることにはならないのではないか、という気がしてきた。愛するという心情におぼれてはいけない。愛すればこそ対象の本質を真剣に考えねばならないと意識した。(p.11)

本書のきっかけを記す一文。石仏を題材とするがそれにとどまらず、どのような研究テーマにおいても、研究者が研究対象に対して抱かないとならない境地として読める。


簡単にいえば「石仏」が安っぽく落着いてしまっていることです。<石仏なるもの>は<こういうもの>だと何んとなくわかってしまったような風潮が感じられることは、正直に言って愉快なことではありません。(p.14)

世間のイメージに迎合した理解や、辞典的な理解で一つの概念を終えようとする危うさが「こういうもの」の表現に込められている。


自分では一応現代人――近代的な感覚・認識をもって生きているという意味でですが――それが「石」に対してある種の<感応>をもったということが、自分なりに非常に興味深かった。しかしそれが何故なのか、何故「石」が生き生きと、激しくこちらに迫ってくるのか、よくわからない。それで何んとしてもそれをわかってやろうと意識し出した。(p.31)

佐藤氏なりの石への感情の言語化が見られる。生き生きとしている石、生気を持つ石を感受するというケース。近代合理主義的な理屈を抜きに、佐藤氏が受け身的に惹かれるという構図である。


石仏を始めたときからわかっていたんですが、行脚が深まるにつれて、それが想像以上の数量なんで、本当にびっくりしました。数量それ自体が日本の石仏の性格を表示する一種の「質」を示している感じ――いわば「質量」の大きさとなって迫ってくる感じでした。(p.36)

石仏の数多あるところに人々の生活をみる境地と佐藤氏は述べるが、量の多さが質を示すというのは、私も岩石信仰の事例に毎日のように出会って「思い」の質量をつくづく実感する。


岩に対っていった昔の人達の造形意欲とか、あるいは岩に対わせた理念とか精神力の激しさとかに対して、現代人であるわれわれのある種の<弱さ>というものを痛感して一層無力感が強まるんです。(pp.59-60)

佐藤氏は、だから弱さをカバーするためにひたすら石仏に時間をかけて訪ね、写真を収め、渉猟するのだという。これでも、昔の人が持っていた信仰や祈りの精神からは遠くかけ離れて、やはり無力感に悩まされるというのは、信仰心をもたない研究者全員が同じ思いだろう。


私は石仏の<宗教的内実>を考えるに際して、<宗教性>と<彫刻性>と<自然性>の三つの概念を柱とする<立体構造>を想定した。(略)<自然性>とは石仏を思考し、かつ論ずる場合に絶対に捨象出来ない<相>である、と私は確信している。これを除外すると、石仏が石仏でなくなってしまうからである。(p.105)

p.182にこの「石仏の概念立体構造図」が掲載されており、先にこの図を見ながらのほうが理解しやすい。

三角柱の概念図であり、研究者はどの角度と視野で三角柱を横から見るかという点で多くの示唆を与える。そして、三角柱の底面こそが造立者が見た視点であり、研究者からは見えない「世界の相違」という諦念にも似た問題提起がなされる。


岩と石の性格の違いは極めて大きい。<岩>とは大地の骨のごときものであって、その現示の様相の一端が岩壁であったり岩盤などである。岩山の無限の奥行。絶対値では示しえない大きさ。それを考えただけでも<岩>は個体ではない。<岩>は人間的なスケールでは測りえない無限性をもつ。<岩>は確かに実体として見えているが、同時にその無限性において、一種の<空間性>を兼備している。(略)<石>は岩山から分離して生じたものである。その分離のしかたによって、その<石>の性格が著しく異っている。(p.132)

岩と石の違いを説明する節で、ここは長いため補足的にまとめる。

佐藤氏は岩石を「岩ー岩塊ー自然石ー不定形石材ー定形石材」に分類する。これは一種の序列にもなっており、左から右の順で「自然性」が希薄になるという。「不定形石材」は、自然石の姿形をある程度残したまま石材として用いられる石であり、そこには自然性が宿るという点で注目すべき概念である。

前掲記述のとおり、岩は無限性そして空間性をもつ。岩から離れた石は大地から離れた個体となるという点で、岩とは異なる性質となる。

たしかに大地から動かせない岩は、大地を込みにした不可分の存在であるから、空間的であると言えるだろう。ならば、岩石信仰の要素の一つに空間性が認められるのは確定とみてよい。

ただし、石と岩の歴史的な語義に基づいて佐藤氏は語っているわけではなく、古典における石・岩の使い分けや語義については定まっていない。

したがって、このくだりは「動かない岩石」と「動かせる岩石」の持つ、それぞれの岩石の特性を指摘したものと受け止めるのが適切である。


<岩>はあくまで自然そのものとして存在し、<石>は自然に抵抗して存立する。強いて言えば、<岩>は原始に位置し、<石材>は文明を背負ってきた。<岩>と<定形石材>の中間に位置する<自然石>や<不定形石材>は、そのあつかわれ方によって、原始性も文明性も保有することになる。(p.135)

岩は本来的には不変ではなく絶えず変化している物質だが、人間の尺度から見たら不変である。このように岩には人間的尺度・生物的尺度を越えた不変性があり、だからいつの時代の人間から見ても岩の姿には原始性(原初性)が宿る。

そんな岩から離れた石は、堅牢な物質的特性をもつことから、以後、石の外部の自然から影響を受けにくい存在として、自然に抵抗する役目を担うという逆説性を帯びたのだと説く。


岩があっても、必ずしも磨崖仏は刻まれはしないのである。実際的にみて、わが国の摩崖仏は全国でおよそ二百ヶ所程度である。それに比べて自然の岩や山に対する信仰――即ち宗教的な意味性が確立した自然空間のの実例は数え切れないほどである。しかも、それらの多くは、摩崖仏を刻むに適した条件を備えているのである。これらのことは至極当然のことであるが、摩崖仏の造顕の意味を考えるとき、深く認識しておく必要がある。(p.143)

なぜ磨崖仏が彫られた岩石と、見逃された岩石があったのかという、あまり他に見ない問題提起であり当然未解明のテーマである。


<仏像>と<岩>とでは明らかにその<世界>が違う。一方は観念的空間であり、他方は現実の存在感によって支配される――言わば<実質的>な空間である。(略)<岩>のカミ(あるいは霊)は仏像として造形化されて、はじめて確かなイメージとなって顕現した。<仏像>は<岩>の無限の<質量>によって現実的な実体感を得、その位置する世界を観念上の空間から、より実存的な空間に位置をかえた。相異なる信仰、相異なる世界の重合。(p.146)

磨崖仏がなぜ自然石に彫られたのか、両者の相乗効果を端的に記した箇所になる。


<岩>は自然としての存在そのものであり、空間的である。<共同視覚的>発想をするなら<岩>はすでに<他界>に位置していると言えよう。その意味からも、<岩>自体がすでに宗教的な存在であるといっていい。その意味でさらに極論すれば、自然性を即宗教性と考えてもいい。(p.169)

岩は空間的で、生活のムラを起点とする共同体の人々から見ればそれは「他界」に属したという論理で、石ひいては外界の自然界は宗教性を帯びたと発展するが、おしなべてそう言えるかというとちょっと言いすぎか。推測に推測を重ねて論理が進むため、土台の根拠をどこまで信じていいかで本書の後半の受け止め方は一本の筋のように心細い。

佐藤氏は縄文時代から石の信仰は連綿と続くことを例示の一つとしているが、持ち運ばれ並べられた石が石の信仰(石が信仰対象か)と呼べるかは批判の余地があり、また、大地に根差していない石に、佐藤氏が言うような宗教性の要件たる空間性・他界性をもっていたとする証明にはなっていない。

さらに、神聖視・特別視されなかった岩も無数に存在しており、それらの岩に対する補足説明が要るだろう。それらの岩は記録が失われただけか、岩の宗教性を感じとれなかった人の感受性側の問題か。つまるところ、自然・岩に自ずとおしなべて宗教性は宿るのか、その宗教性を感受できるかできないかの人の間の認知の差なのか。


造像の志向性が優先し、それによって<岩>本来の宗教性が阻害されているようにみえる。強いて言えば、仏師達の高度な技法が<岩>を単なる素材と化してしまっているのである。彫りすぎである。私はそのところに臼杵磨崖仏の<岩の造形>としての一つの欠点をみる。(p.174)

臼杵磨崖仏は「彫りすぎ」とする評である。美術的観点に裏打ちされたものと受け止めるべきか、佐藤氏の主観として閑却するか、私にはわからない。定量的なものではない「美」の領域の扱いかたにかかわる。

これに関連して、佐藤氏は岩から離れた独立石仏の場合も、岩より自然性は希薄ながら、自然と人為の調和による美があるとする。すなわち、人為が自然を殺しているとは限らないということである。

人間が自然をさらに美にしたいと思い、自然に手を入れつつも、一方で、手を入れない部分もあった。それが「成功」したかどうかは、本来的には作り手にしかわからないが、つくられたものを見る「受け手側」が各々生み出す美の認識も実際として存在する。

難しいのは、それらの認識が必ずしも言語化の形をとっていないだろうことで、それをどこまで文章化できるのか。そして、文章化することが他人を表現するという点において正確なのかという疑問が私にはある。


鎌倉時代以降になると比較的硬質の石材を刻む技術の発達によって、<石>の自然性がほとんど無視されたような石仏も多く出現してくる。そこでは<石>は完全に素材化し、ノミに対して全く抵抗感を示さない。つまり<石>の内面性は彫技によって阻害され、ただ単に<石肌>という表皮的な感触性として<石>の意味があるだけなのである。(p.177)

鎌倉時代の前と後で、石仏がこのようであると言い切れるかどうかは要審議である。


石材は運搬可能であり、石工が自分の工房で石仏を刻めるし、労力も技術も惜しまず使える。つまり職能者として日常的な自分の<空間>で仕事が出来る。だが磨崖仏はそういうわけにはいかない。絶対なる<存在>である<岩>――その支配する空間、つまり非日常的な<世界>に入って仕事をしなければならないのである(しかも彫刻に困難な硬い岩に対って……)。そこでは岩はすでに<神>であり<仏>であるのだ。それに対って像を刻むことの、その行為自体がすでにある種の宗教的営為であり、宗教的営為としての意識を石工に要求している。(p.283)

他界たる空間内の岩で彫ること自体が宗教的行為であるとする。

佐藤氏は石仏造立を全国的におこなった主体を宗教者の聖たちに比定しているが、宗教的行為を行う石工も宗教者と同等である。

岩石における宗教性の追究が本書のテーマであるが、岩石に対峙する人間側においても、宗教的なものは宗教者のみの専売特許ときっぱり分けきれるものではなく、生活の延長線上の行為に宗教性が帯びうることを「空間」の違いで喝破した一文と言えるのではないか。


2025年2月24日月曜日

高木寛治『石に救われる―石の書―』(2024年)書評

岩石の哲学に関する新著として、高木寛治氏の『石に救われる―石の書―』(吉備人出版 2024年)を読んだ。


高木氏はイワクラ学会理事として知られるが、氏の刊行歴に「石と在る」を見かけた時、ブログ「石と在る」の方だと初めてつながった。

「石と在る」は2005年~2008年に更新されていて、ブログ自体はまだ残っている。投稿内容を見れば石への造詣の深さは一目瞭然で、石を哲学的に思索する方として当時からとても気になっていた。このような形で邂逅できてうれしい。


2003年刊の第1集『石と在る』から、2023年刊の第5集『石を祀る―神々の里・総社のイワクラ(磐座)―』までの発表済み文章の自選という形をとる。

2024年の書籍と紹介するには高木氏にとっても古い言説も含まれると思うが、高木氏の言を借りれば「執筆から二〇年近い年月が経過したが、石に対する想いはほとんど変化していないことに驚くとともに安堵もしている」(p.45)の一文もあり、自選であることから2024年時点の一人の石好きの言葉として受け取ることができるだろう。


石の本の集成

高木氏の本書のもっともありがたいところは、古今東西の石の本を類を見ないほどまとめきり、本書に収録したことである。

私のように、岩石信仰に関する本だけでもない。一般的イメージの、岩石学・鉱物学からのアプロ―チだけでもない。

地学などの理系の石の本から、歴史、詩、小説に登場する文系の石の本まで、分野関係なく「石と人との関わりについて全体を展望する意図があって書かれたと思われる本」を蒐集している。


たとえば高木氏は水石(鑑賞石の山水景石)をきっかけに石拾いを始めたが、当時の水石ブームのなか高価で売買されていた風潮に異議申し立てをはかり書かれた河野宗一『石と人生』(私家版 1968年)、石仏に魅せられた自分に内的矛盾を感じて作品化したという佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林)、石狂・石道楽と称されて崑崙山を模した石崑崙を築いた石井金三朗『石崑崙』(私家版 1935年)など、まったく知らない石と人のディープな本が紹介されている。

数例を挙げるだけでも、それらを蒐集した高木氏の視点の独自性が窺われるだろう。

石の本を蒐集する+石に関する随筆を書くという両輪で、石と関わってきた著者。

高木氏の著書で知り、私が新たに買った本は次のとおりである。

  • 久門正雄『石の鑑賞』理想社 1954年
  • 河野宗一『石と人生』醇和同窓会 1968年
  • エス出版部『日本人と石』1992年
  • バード・ベイラー『すべてのひとに石がひつよう』河出書房新社 2017年
  • 白水晴雄『石のはなし』技報堂 1992年
  • 佐藤宗太郎『石仏の解体』学芸書林 1974年
  • 岩田慶治『草木虫魚の人類学―アニミズムの世界』講談社学術文庫 1991年
  • アンドレ・ブルトン『鉱物』国書刊行会 1997年

本書によって多くの石の関連本が散逸せず、高木氏に感謝しかない。


拙著『岩石を信仰していた日本人』も紹介いただいており、私のホームページ(2012年の文章ということで旧ホームページ)を以前より注目いただいていたとのことでありがたい思いである。イワクラ学会誌に私の論稿があればもっと良かったのではないかという過分なお言葉もいただいているが、私とイワクラ学会の関係は前記事に書いたとおりでご容赦願うしかない。

岩石祭祀事例集成表に粗密があると記した私の「言い逃れ」にも注意深く確認をいただいており、岡山県の場合は私が62例を挙げたのに対して別文献では岡山県の磐座が101例、「星と太陽の会」の探訪を踏まえると実際は数百カ所に上るだろうとの指摘も具体的でそのとおりと思う。

私が「おわりに」で書いた文を長めに引用していただいている。なぜ岩石信仰に興味を持つようになったのかという書き出しから、岩石の哲学的なアプローチを今後深めていくという決意表明の部分である。それから14年、一応このような形で宣言どおり哲学的アプローチのインプット中である。

感情を入れないように書いた本でわずかに感情を込めたのが「おわりに」なので、高木氏の求めるところと符合したのだと思う。昔書いた文章なので今は青臭さで恥ずかしいが偽りはない。

高木氏も書中で「いつごろから、なぜ石に惹かれるようになったのか、今となっては定かではないが、人の生活の根源をかたちづくっている石が、動物や植物、天候などの他の自然要素に較べ、多くの人から関心が払われる度合いが少ないことが背景にあるような気がする。石に関する書物は、店頭でもほとんど見かけない。」(p.159)と書いている。私の「おわりに」と通じ合う部分がして同感を得たりの思いである。


石の出会いときっかけ

高木氏は石に惹かれた時の自身の精神状態を、もったいぶらずに言語化している。

「『存在の不安』に根差している」(p.10)

「たまたま立ち寄った『石』の盆栽とも言える『水石展』で、形容しがたい石の自然美と沈黙、そして多様な形態を備えた不動の、静寂の中の、小さいが堂々とした存在に、なぜか心惹かれる思いがしたのである。」(p.11)

そして、高木氏は自らが石から離れられなくなっている理由を、自らの内面のみならず、古今東西の先達の本が記した「言葉」からヒントを得ようとしている。


その言語化に大きく寄与するものの一つが「石をモチーフとした詩歌」であり、たとえば加藤克己『石百歌』(四季出版)はその書名のとおり百首を越える石の短歌が収められ、とりわけ高木氏の石のイメージを豊かにしてくれたらしい。

使われる言葉が難解でなく、短く端的に表現される詩歌は「処世訓」にさえなったといい、高木氏はそのような詩歌に出会ったらノートにずっと書き留めていた。書き留めることで、自分の感情の解決に必要な時に引き出せるのだろう。

先出の加藤氏は自らの石の歌に対して、石は自分の生命そのものを宿したものと表したというが、その点で岩石が人間の写し鏡であり、岩石を通して人間を語っているに相違ない。

形式は変われど、私がブログで本書も含め、各種の記録を行うのと同じかもしれない。


生活の中の石

当ブログをお読みの方なら磐座・巨石信仰に興味のある方が多いだろうが、高木氏は水石と石拾いから磐座へ関心を広げた方なので、その関心領域は石の総体である。

信仰の石に関するものなら、次は古墳、墓石、石仏、石塔、石碑というところか。それにもとどまらない。

信仰や精神世界と一見無縁と思われやすい、生活の中の石にも着目している。


石垣

  • 城の石垣や石塁や石蔵だけではない。
  • 氾濫や洪水から防ぐための河川の石垣
  • 石垣の壁の家
  • 石垣の塀
  • 石垣でできた突堤
  • 田畑を守る石垣
  • 猪垣

その他の石

  • 石橋
  • 石段
  • 石畳、石敷きの道
  • 漬物石
  • 軽石
  • 砥石
  • 石臼
  • 力石
  • 鉄道線路の敷石
  • 投石 遊びとしてのつぶてから、儀式・戦争に用いられた石投げ、投石具、石弾まで
  • 硝石 爆薬の原料
  • 宝石
  • 薬石 鉱物から薬品や化学物質を取り出す
  • 温石
  • 碁石
  • 石焼き芋


子どもの石体験

山田卓三・編『ふるさとを感じる あそび事典 したいさせたい原体験3000集』(原体験教材開発研究グループ 農文協)には「石体験」の種類として次が挙げられるという。

  • 石に触る
  • 石のにおいをかぐ
  • 石をなめてみる
  • 石をたたく
  • 石を探す
  • 石を並べる
  • 石を割る
  • 石でたたく、つぶす
  • 石で絵や文字をかく
  • 石の上を歩く
  • 石で水切りをする
  • 石で的当てをする
  • 石けりをする
  • 岩登りをする

子どもを対象とする研究では、ヒトの先天的な精神・感覚の発露とみなす評価がある。

その点で、石の原体験という視点は興味深い。

高木氏はそれに加えて、「石を積む」「石で何かを模して玩具、置物、芸術作品にする」「石を熱くする」も提案している。


また、高木氏は子どもの頃に不思議に思った石について以下の事例を述懐している。

  • 軽石 石といえば重いイメージなのに軽いのが不思議だった。
  • 石炭 燃える石。蒸気機関車の時代には駅には石炭が山積みで、宝物のように思えた。
  • 磁石 川原で砂鉄を集めて遊んだ。石といいより金属の一種。
  • 化石 高い山の上に、海中生物の歴史が石の中に閉じ込められている地球のダイナミズム。なにもかもが石になっていく自然の摂理。
  • 鍾乳石・水晶 子どもながら欲しいと思った。
  • 蝋石 コンクリートや石敷き面に絵や文字を書いて遊んだ。
  • 硫黄 祖母や母が庭で硫黄を使って強烈な臭いと共に干瓢づくりをしていた。
  • 隕石 大人になってからも、隕石伝説に出会う。


これらの中には、大人になってから岩石の一種であると知ったものもあるという。

近代科学における岩石の領域とも言え、近代科学以前では石の概念に入らなかったものもあるだろう。その点で、どこまでを原初の人が石とみなしたものの精神と見るかには多少の腑分けや注意がいりそうではある。

それでも、高木氏の子供時代の生活体験の豊富さは、かつての石と人の関係を現代人が想像するに参考となる。

「当時、舗装された道路などほとんどなく、空き地もあちらこちらにいっぱいあった。そして、そこらには大小の石ころが無数にあった。しかし、今、世の中はうつろい、地面の多くが疑似石などで覆い尽くされ、それらの『石』はいつのまにか、すっかり身辺から姿を消してしまった。」(p.54)

そのように石がありふれていた時代に、特別視・神聖視された岩石とは何だったのだろうかという興味がもたげてくる。

少なくとも、現代、石の体験に乏しい私たちが物珍しさで驚くような巨石・磐座との感覚とはまた異なるだろうことは想像できる。


体の中の石

「私には、動物の体の中の『骨』や『歯』、体を覆う亀の『甲羅』、貝や蝸牛などの『殻』は、一種の石ではないかと思えて仕方がない。」(p.40)

硬さの象徴、白さの象徴としての石というだけの随想ではとどまらず、高木氏は後漢末の成立とされる『釈名』の「地は石を以て骨と為す」も紹介している。石と骨の同義を説くものであり、久門正雄『石の鑑賞』(理想社)では石の異名を「地骨」「山骨」「山体」「天地の骨」と称し、天地をつなぐものを「雲根」と称したのは、すべて人が石を自然界で見立てた精神観である。


高木氏は医師としての知識から、体内をめぐる鉱物と人の関係にも注目する。

動物は石を作ることができるという次の例示は、氏ならではの観察眼、本領発揮と言える。

耳石は、内耳の耳石器にあり、体の均衡を保つもの。

結石は、詳しくは尿路結石、胆石、唾石、扁桃結石、静脈結石、膵石、胃石、腸結石、鼻石、歯石に分かれ、詳細の成因は異なるという。

体内の石も、重要でもあり有害にもなる二面性を語るもので、体内の石が人に牙をむいた時、真摯に向き合うことが石との付き合い方に通ずると高木氏は述べる。


自然石を動かすことについて

水石にせよ石拾いにせよ、それらは自然石の本来あった場所を移動して、場合によっては一部に手を入れて加工・切削され、置かれる場所も人の意図によっては配置される。

自然石を愛でるとはいえ、これは本当の自然を対象とした精神といえるのかという疑問はある。

これについては、高木氏が古本で見つけた内藤濯『未知の人への返書』(中公文庫)の中の作品「石を前にして」の記述に一つの答えがある。日本庭園における庭石や飛石の置きかたについての考えである。孫引きとなるが下記掲載する。

「飛石をならべたのは、むろん人間である。だが、この場合は、自然が人工を見えなくしているのである。あるいは、自然が人工を美しく生かしているのである。自然の生き方――ひいては石の生き方と、人間の自然の生き方との調和ということがもし考えられるなら、それこそ美しさの絶頂であろう」(pp.172-173)


高木氏の石の哲学

本書における核心部分の記述は以下にある。

「人類の営みの全体が、石の増殖への協力加担ではないか」(p.48)

「石のなかの原子力までもとりだしてしまった人類は、今、すこし立ち止まって、見えない石(宇宙)の大きなたくらみがひそむ『石の夢』の分析を行ってみる必要があるのではないだろうか。そのためには、石との対話を深めていくことが避けられない」(p.49)

「石の夢」とはシャルル・ピエール・ボードレールの同名の詩から借りた表現であるが、高木氏は澁澤龍彦が言うところの「石は大地という源泉に所属する」という石の哲学や、栗田勇の「1個1個の石の中に神の世界、夢の世界がある」という言説を受けて、こう結ぶ。

「いわゆる石(宇宙の要素とみなしたい)は生きている、石は人智では、理解の及ばぬ深いたくらみを抱いているのではないかとの想いがふくらんでくる。」(pp.255-256)

石は宇宙の要素として生きていて、それぞれの石は生物時間とは異なる経過の中で生きるように夢見ていて、石の中で夢が無限大に増殖している、それを人間は1個の石からどれだけ受け取っていけるかということと私は解釈している。


高木氏が著書で繰り返し引用・紹介する記述の一つに、絵本『すべての人に石がひつよう』訳者の北山耕平のあとがきがある。変化の時代には自分の石を見つけて、その石と共に残りの人生を歩むことで、地球由来で小さな地球ともいえる石が記憶装置となってくれることの心強さを伝えている。

高木氏も本書の「おわりに」で、国民1人1人が、自宅内やベランダにでも置けるような手ごろな石を持つ習慣を提案している。それより良いとするのが、近くに参拝するような磐座を再発見することというが、これは住んでいる土地によるだろうとして手元の石を推奨している。

これは現代にゼロから創られた文化ではなく、武士の家の生まれだった津田左右吉が誕生日の祝いには小さな石が1個添えられ、毎年の誕生日では常にその同じ石を用いたそうである(長田弘『本に語らせよ』幻戯書房 2015年)。その人の一生の石という風習についてどこまで遡るのかは研究が不足している。


人類の歴史の99%は石器時代ということで、高木氏は石と人の不可分な関係を説く。

たしかに、人と石の関わりは「石器」という二文字が放つ一般的イメージ以上に、単なる加工と利用の関係にとどまらない。高木氏が引用する岩田慶治『草木虫花の人類学―アニミズムの世界―』(講談社学術文庫)にあるように、代々研磨加工、そして労力を重ねられて光沢を放つ石器はもはや宝器や精神的象徴のようなものである。

しかし一方で、石器時代というのは石器、つまり石が腐らず地中で残りやすいからこそ考古資料として残りやすいに過ぎない。

ヒトは石だけでなく、身の回りに存するものをすべて利用に用いていたはずで、草木との関係、水・風や日々変わる天候、そして虫から猛獣にいたる他の生物との関わりなど、これら有機物は残らないから結果的に石のウエイトが大きく見えていないかにも気をつけたい。もちろん、そういった石の遺存性自体は注目するに値するが、やや歴史を俯瞰する現代人視点に囚われている。

子どもの原体験として石に触る、石のにおいをかぐ――の例が挙がったが、それは赤子が身の回りのものをすべて手に取って口に入れるがごとく、石に限らずおこなわれたことだろう。そしてそれぞれの自然物や身の回りの「物質」から感受する精神があって後天的な知識・経験の獲得につながっただろう。

私は、他の自然物とは異なる、石からしか得られない感受・精神とは何だったのかを追究していきたい。

そして、石に感受しなくても石を利用することはできる。人間社会の中で、感受した人に倣えば石の使い方は模倣できるからだ。岩石信仰でさえ、真の意味で信仰心を感受できたのは一部で、社会の序列の中で石に感受しなくとも建前として石をまつった人々もいた。

「石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もう、とらえられて放さなくなるのが常である」(p.191/アンドレ・ブルトン『石の言語』より)のである。

石を利用することは数多あれど、石にとらわれて離れられなくなる人は、また別の精神なのである。

石を利用することと石を感受することは異なるという視点で、石と人のある種純粋ではない関係も見ていかなければならない。

その際には、あまり近代科学以降の知に寄りかからないようにはしたい。西洋を石の文化、日本を木・紙・水などの文化と対置する、あるいはそのアンチテーゼを問う言説などもその一つである。しらずしらず、自分が「最近」のだれかの言葉で語ってしまわないためだ。


2025年2月16日日曜日

イワクラ(磐座)学会の閉会に寄せて

イワクラ(磐座)学会が2025年4月末に閉会することを知りました。

理事の平津豊氏のFacebookの投稿で詳細経緯を見ましたが、学究をつきつめていくことで組織・団体内の制御不能な膨張に悩まれていたのだと拝察します。

「岩石があると何でも『イワクラ』だと言い出す人が非常に増えた」のくだりはおっしゃるとおりですが、これはイワクラ学会が始まる前からよく見た現象であり、人の性のようなものと受け止めています。

今後も関係ないところで何度も同じ発想の繰り返しが生まれていくものと思われ、そういうインフルエンサーや社会の空気とある種併存して、学術活動は粛々と地道にやっていくほかありません。


学会活動もそういう地道なものを背負うものです。たとえば私は長らく、イワクラ学会にイワクラの保存活動(物理的保存・記録的保存)を期待していました。

HPや会報などでそのような視点の活動も見かけることがありましたが断片的・枝葉的であり、今回の閉会により途上で終わり、HPも存続しなければ再び散逸となるでしょう。

イワクラの文化財上の立ち位置の脆弱さ(=自然石として消滅しやすい性質)を考えれば、会員各個人の関心を差し置いても、さらに優先的に取り組まれればと。

個人では太刀打ちできない組織力によって、学会の歴史上の存在感もより一層だっただろうと思いますが――本当に外部から勝手なことを思っているだけでした。


かつて会員の方からお誘いを受けたこともありましたが。私は気にしいなので研究に心理忖度の余地は入れたくないと思い、自由勝手気ままにさせていただきたく、結果的に入会することはありませんでした。

創立以来変わらず会長の渡辺豊和氏の思想強く、外から見るかぎり個人組織・個人誌感が否めなかったのもあります。

理事の高木寛治氏、江頭務氏などの路線であれば、また異なる「イワクラ」観が社会に浸透したかもしれません。


とはいえ、イワクラ学会の活動の延長線上で設立された日本天文考古学会で今後研究が進展していくのだと思います。

学会名称から、岩石以外の天文考古学に軸足を移していかないとならないことは自明と思われますが、考古天文学会議を主催する北條芳隆氏など、本職の考古学者との協業が進めば学術的な未来が見えてきそうだと楽しみに受け止めています。

天文学を中心に据えて、理系分野の方々が多いと拝察するので、文系歴史学にカウンターを食らわす学際の嚆矢になることを期待しています。

ただし、文系歴史学の知の蓄積も半端なく、門外漢がいっちょ噛みすると大やけどします。お互い敬意を持って協業できる将来を願います。

私も文系という限界の中で自分にできる研究をしてまいりますが、自分の問題意識の延長線上でご教授を乞う日がいつか来るでしょう。


2025年2月9日日曜日

鳴石/膳貸し石(山梨県北杜市)


山梨県北杜市大泉町谷戸

鳴石/膳貸し石

すぐ横に沢が流れる。


変事があると石が鳴ったことから鳴石の名がある。

この石に「~を貸してほしい」と頼むと必ず貸してくれた。
特に冠婚葬祭の折、膳椀を何人前分か貸してほしいと頼んでおくと、翌日に頼んだ分だけの品物が石の上に置かれていた。
使用後は、借りたものを石の上に置いておけば、やがて石の上から消えたという。

ある時、ある人が膳椀を壊したまま返したら、石は怒り、その後は一切反応しなくなったという。

この手の膳貸し・椀貸し伝説は各地に類例が見られる。

参考文献
土橋里木 『甲斐の伝説』 第一法規出版 1975年


2025年2月3日月曜日

橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)


和歌山県東牟婁郡串本町


紀伊串本の沖から南に浮かぶ紀伊大島に向かって、橋脚(橋杭)のように立ち並ぶ岩の列。
地質的には、マグマで形成された岩脈が後に黒潮の浸食で削られて現在の姿を見せたと考えられているが、すでに奇岩としては有名であるので本項では岩の名称と伝説についてまとめておく。

橋杭岩

名称

海岸に一番近いものを「峭立」と呼ぶ。
橋杭岩で一番高い岩を「稲荷島」と呼び、後は高さ順に「折島」「桃嶋」「平島」「鋏島」「チョンギリ島」「拝み島」「辨天嶋」「一の嶋」「二の嶋」と呼ぶらしい。
また、北に建つ大師堂に接する岩を「柱天巖」と呼ぶ。
(以上、庄司海村『古座川』ユヤ出版協会 1923年 より)

海岸に最も近い岩。「峭立」か。

写真中央が一番高い「稲荷島」か。


稲荷、辨天などの名称から、岩上や岩陰に小祠あるいは岩そのものを祠に見立ててまつった可能性がある。

伝説

弘法大師が紀伊の海岸から紀伊大島へ一夜のうちに橋を架けようとしたが、天邪鬼の邪魔によって鶏の声真似に騙されて、一夜で作れないと判断して取りやめた跡が橋杭岩という。

鬼が一夜のうちに橋を作ろうとしたが、同様に鶏が鳴いたので中止したという話もある。

紀伊大島の輿兵衛という漁夫が大島に橋を架けたいと祈願したところ、一夜で杭を建てれば上に橋を架けてやろうとお告げがあったので急いで作ったが、海の神が橋を作られると困るというので鶏の鳴き声を真似して輿兵衛はあきらめた。その後、輿兵衛は海に身を投げたためこれを哀れんだ神が橋杭岩の上に時折虹の橋を架けるという。

埼玉県坂戸市塚越や徳島県阿南市椿泊町にも橋杭岩と呼ばれるものがあり、岩を橋杭に見立てたもので同様の伝説が認められる。

(以上、日本放送協会編『日本伝説名彙』日本放送出版協会 1950年 より)

2025年1月26日日曜日

立石/立石様/活蘇石(東京都葛飾区)


東京都葛飾区立石


葛飾立石の地名の由来となった岩石。
石の露頭が地上から少し顔を出すくらいの、小さな石である。


石が立つという名前負けしているように思えるが、『江戸名所図会』に描かれた立石の姿は、現在のものよりも高さがある(といっても高さ一尺と記されるので約30㎝)。

立石稲荷神社

立石

なぜ小さくなったのかについては、長年の風化による説のほか、立石を打ち欠いて飲めば病が快癒するという一種の信仰習俗がかつてあって、その結果小さくなった可能性がある。


「立石」の地名はすでに、応永5年(1398年)の『下総国葛西御厨注文』に登場することから、少なくとも室町時代には立石が特別視された存在だったことが推測される。

江戸時代には、寒くなると石がどんどん欠けていくが、暖かくなると元の状態に戻る奇石として知られた。

文化2年(1805年)には地元の人々が、石の下はどうなってるのかと掘り進めたが石の根元は見えず、掘った人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで祠を設け、立石稲荷神社としてまつるようになったという。

南蔵院所蔵旧記から写したという『持高』文政6年(1823年)に立石稲荷大明神の記述があり、そこには「神体活蘇石」の名称で記される。


鳥居龍蔵博士はこの「活蘇石」の名称に注目し、活蘇とは石が生きているという信仰を伝える証左であり、巨石文化研究に傾注していたことから立石を低地帯には珍しい「メンヒル(巨石文化における立石の事例)」とみなした。

その後、大場磐雄博士は「磐座=盤石状」「石神=立石状」という構図に当てはめ、立石を石神事例の1つであると考えた。


全国の石神事例と比して珍しいと思う点は、元は珍奇・好奇・特別視の対象から始まっていて、それが崇りによって畏敬の対象に昇華し、その後、石を欠く習俗によって親近的な信仰に、人々の感情が波打つように変遷してきたところにある。

元来は畏敬の対象だったものが、時代を追うごとに畏れを減じて親近・好奇の対象に変わるという一直線的な変遷はままあるが、あたかもジェットコースターのように感情の起伏が激しい立石は独特である。


ちなみに、この立石の石種は千葉県安房郡南鋸町の鋸山周辺でしか採れない房州石という鑑定結果があり、近くには房州石を用いて石室を構築した古墳があることから、立石は古墳の石室石材だったのではないかという見方もある。
立石の地中をレーダー探査したところ空洞構造が検出されたことから、古墳が埋没しているのではないかともされている。


京成電鉄立石駅のホームには立石の説明板とレプリカが置いてあり、こちらも一見の価値がある。


参考文献

  • 鳥居龍蔵「武蔵野のメンヒル」『鳥居龍蔵全集』第2巻,朝日新聞社,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12143265 (参照 2025-01-26)
  • 大場磐雄「日本に於ける石信仰の考古学的考察」『國學院大學日本文化研究所紀要』第8輯 1961年
  • 現地看板


2025年1月20日月曜日

大場磐雄博士写真資料を追加

「大場磐雄博士写真資料」で公開されている岩石信仰に関する写真で、他で見られず資料性が高いと判断したものを、本ブログですでに紹介済の探訪記に追加しました。


後日、まだ本ブログで投稿してなかった葛飾の立石や、未訪ながら非公開で今後も写真撮影至難と思われる宇佐八幡の三つ石や長野の児玉石神事も本写真を利用して投稿予定です。


大場磐雄博士写真資料は、國學院大學デジタルミュージアムが公開するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのデータです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、転載などの二次利用を著作権者が許諾した資料であり、大場磐雄博士写真資料もクレジット表記と非営利使用であることを条件に二次利用が許可されています。

今回、埋もれていた写真資料を再活用して、岩石信仰の記録としての資料価値を高められたことをありがたく思います。

2025年1月19日日曜日

ドルメン類似遺跡/坪平遺跡(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町立沢

 

町指定史跡。埋蔵文化財上の正式名称は坪平遺跡だが、「ドルメン類似遺跡」の通り名をもつ。

日本のドルメンといえば鳥居龍蔵博士ということで、鳥居が大正11年(1922年)に訪れて命名した。

ドルメン類似遺跡の石碑

現地に残る遺構

ドルメン=巨石というイメージだが、そんなに目立つものではない。

実際のところは縄文時代後期(BC.1800年前後)の配石墓(石棺墓)である。

遺骸や埋葬を確定させる痕跡は見つかっていないが、遺構に接して土器片や石棒片、人形にも見える十字形石器が伴出した。また、後年の追加発掘で土坑墓と思わしきものを3基検出しており、やはり一帯は墓域だった可能性が高い。

配石墓は約4mの間隔を置いて2基が検出され、両方とも南北5m×東西4mほどの規模に渡って石積みがなされていた。

石棺墓の一つ。小さい石の上に大きいめの石が載るのがわかる。

下部に小さい石を積み重ね、上部に大きめの石を蓋替わりに置く構造をみせる。地表に露出した蓋石の様相を、鳥居は海外のドルメンに重ね合わせたのだろう。

とはいえ、地表に蓋された大石を見ればドルメンになってしまうでは、中世の経塚も古墳の石室も登山のケルンも地質活動の岩陰も、地表に石で蓋されれば同質である。共通項が大きすぎるのである。岩石の単純な積み上げだけを以て世界共通の文化を夢想すること自体に無理があるだろう。


世界規模での巨石文化論が崩れた今、この遺跡にドルメンという言葉を付けるのは不適切だが、考古学史上において「鳥居龍蔵ドルメン時代」の調査遺跡ということが名称からすぐわかるのは良いところである。

なお、ドルメンの別名として「支石墓」を用いる向きがあるが、現在の考古学における支石墓は基本的に弥生時代の墓制に限定された用語として通っているので、縄文時代である本遺跡に当てはめるのは適切とは言えない。


熊野権現の神石/桃太郎爺婆犬猿雉之墓(香川県高松市)


香川県高松市鬼無町鬼無

桃太郎発祥の地とされている鬼無町では、熊野権現を「桃太郎神社」として登記し、境内の神石は桃太郎たちの墓として生れかわった。
(読売新聞社社会部編『わたくしたちの伝説』1959年)

熊野権現桃太郎神社の境内には、「桃太郎の遺跡」として「桃太郎爺婆犬猿雉之墓」がある。




犬・猿・雉は石祠に札が立てかけられているが、爺婆と桃太郎はよくわからない。
よくわからないが、猿と雉の間に置かれた「左堂神」の岩石と、遺跡標示の右に置かれた「神石」がそれぞれ対応するのだろうか。

前掲書の記すとおりであるなら、これらの岩石はかつての熊野権現でまつられていた別の来歴をもつことになるのでここで紹介した。


参考文献
読売新聞社社会部 編『わたくしたちの伝説』,読売新聞社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9543529 (参照 2025-01-19)

桃太郎神社の「洗濯岩」「桃くぐり」「鬼のぞき」(愛知県犬山市)

愛知県犬山市栗栖字古屋敷

近現代に整備された犬山桃太郎伝説の影響の下、生まれたと類推される岩石事例3点を紹介する。

洗濯岩。「昔々この岩の上で毎日洗濯をしたお婆さんの足跡が遺っているので前方の木曽川岸からここに移動させたものであります」(現地看板)

桃くぐり。「桃くぐりをすると百年(ももとせ)まで健康で長生きするという云い伝えがあり、写真の爺さん婆さん達は子供の頃ここをくぐって長命いたしました」(神社社頭掲示)。各地の胎内くぐりに影響を受けたものか。

社頭掲示より。鬼のぞきが現在どこに位置するかは案内がなかった。

2025年1月12日日曜日

桃山の「メンヒル/ストーンサークル」(愛知県犬山市)


愛知県犬山市栗栖

神社から五百メートルほどの奥の桃山は桃太郎が最後に姿をかくしたところと伝えられ、太古からこの山をご神体として仰いできた。その麓にある磐座は祭祀が行なわれた場所である。現在はメンヒルと呼んでいるが、こうした遺跡は山をご神体とした最も古い信仰の起源を物語るものであると云われている。
(桃太郎神社発行「犬山桃太郎神社解説之図」由緒書)

犬山桃太郎伝説の詳細は別項に譲るが、桃山の麓にはメンヒルと呼ばれるものがあると記される。

現地を訪れると、桃山の麓に栗栖神社があり、川沿いに東へ道が続いている。

すぐ左右に二股分岐するが、山側の左は桃山を登るルートで「ミラマチロード in 栗栖」の看板が建つ。そちらではなく標示のない川沿いの右の道を進むとすぐにメンヒルと山神碑がある。

桃山

「メンヒル」

裏の地山は削平されたような傾斜を見せる。

メンヒル(左)と山神碑(右)

高さ1mほどの岩塊に、楕円形の礫が取り囲むような構造であり、周囲の礫は明らかに整形されているが旧状はどのようなものだったのか。

犬山日本一桃太郎会のnote記事によると、昭和4年(1929年)4月16日付の新愛知新聞で「栗栖村にメンヒル発見」の見出し記事が紹介されている。 

同記事では、祠の傍で「発掘」された巨石で、来犬した「考古学、人類学の権威鳥居龍蔵博士」が実見して「メンヒル(立石)であらう」とコメントを残している。


鳥居博士は再調査の上で具体的に発表することを約したというが、残念ながら鳥居博士による具体的詳報とやらは確認できず、唯一、音信形式で一行触れた記述を残すのみである。
犬山附近武陵桃源の栗栖村を訪ひ昨年発見したストンサークルを調査したした。
(鳥居龍蔵「尾張の旅より」1929年。原文ママ)
ここではストンサークル(ストーンサークル)と呼んでいる。メンヒルの周りの岩石を含めての呼称だろう。時系列から、1929年の前年となる1928年に発見されたものと類推される。
「発掘」というから地中から掘り出したのだろうが、その発掘経緯・図面が記録されていないのは考古資料としては致命的欠陥である。原位置不明、調査の正確性不明などにより、残念ながら考古資料としては扱えない。

いわゆる「鳥居さんのドルメン」(鳥居さんは巨石を見れば何でも巨石文化のドルメン・メンヒル・ストーンサークルと呼ぶ)と揶揄された案件の一例であり、桃太郎神社の地ということもあいまってキワモノのような扱いを受けそうだが、桃太郎神社のスタートはゼロからの虚構ではなく元ネタがあり、かつては子守神社の名で呼ばれていたという。

桃太郎神社として観光地化される前の桃山の信仰について記された文献が残っており以下引用する。

桃の山の下に、古来子供の守り神がまつられて、毎年紅葉の色付きて山を彩る頃の十一月七日が祭典であって前日六日の夜から村の子供達はこの祠の前で、徹夜して御馳走を煮て食べたり、踊り廻ったりするやさしい風習がある。もし子供が夜泣きしたり病気のときは、子供と同じ位の、身丈の幣を捧げてお祈りをすると、たちまち平癒すると云ふので、村人は篤く信仰して居る。本年(吉川注:1929年)四月十二日、此の子供の神様は桃太郎神社と改稱せられ、引續き、犬山町に於て、東西の御伽噺の大家を召し盛大なる桃太郎祭を取り行ふて、大いに氣勢を上げた。
(愛知出張所「わしが部内(其の一)」1929年)

桃太郎神社と名前を変えられる前の、夜泣き止め信仰などの子供の守り神としての桃山(桃の山)の姿が浮かび上がるようである。

桃の山といふに、古来桃太郎神社が祀られてあったが、不便な場所なので、昭和五年に日本ラインに近き、桃太郎屋敷の所に移転した。
(藤原鎌兄『健勝地高日本』1939年)

メンヒル発見と合わせて、1929~1930年にかけて急速に当地が「桃太郎」と「巨石文化論」の外部影響を受けて観光地化していく流れが垣間見られる。

桃山自体の桃信仰は江戸中期まで遡れる。

古来、栗栖郷桃の山山麓に鎮座と記録にあるが、この神社の昔の棟札には、寛延二年(一七四九)と寛政十二年(一七四八―)のものとがあり、寛政六年に書かれた奈良絵本の『御巻物桃太郎』、『桃太郎一代記』などがある。昔は「桃の神」と棟札に書しており、古事記に明記されている桃の精霊「意富加牟豆美命」(オオカムヅミノミコト)を、子供の守護神として奉斎したものである。
(中谷一正『日本説話文学の研究』1982年)

この当時、桃の神の祠の隣で「発掘」前の岩石群がどのようなものであったかは最早知る由もないが、江戸時代における桃太郎伝説の信仰地として、そして、「メンヒル/ストーンサークル」と呼ばれた一種の「近代遺産」としての歴史的評価はあらためて見直されて良いだろう。

栗栖神社元宮跡。現・栗栖神社の約500m南にあり、大正12年(1923年)に現在地へ遷座したという。桃の神の近くに遷座しにきたということになる。


参考文献

  • 桃太郎神社発行「犬山桃太郎神社解説之図」由緒書
  • 犬山日本一桃太郎会「『犬山桃太郎伝説』昭和4年の新聞報道」https://note.com/inuyama_momotaro/n/ndfe0c03f62e5(2025年1月12日閲覧)
  • 鳥居龍蔵「尾張の旅より」『武蔵野』14(6),武蔵野文化協会,1929-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7932485 (参照 2025-01-12)
  • 愛知出張所「わしが部内(其の一)」『御料林』(15),帝室林野局林野會,1929-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1539970 (参照 2025-01-12)
  • 藤原鎌兄 著『健勝地高日本 : 信濃及附近濃飛両越参遠駿等高日本地方観光案内』,高日本社,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1036019 (参照 2025-01-12)
  • 中谷一正 著『日本説話文学の研究』,中谷一正,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12454122 (参照 2025-01-12)


2025年1月6日月曜日

尾張富士の岩石信仰(愛知県犬山市)


愛知県犬山市字冨士山


石上げ祭の献石祭祀

尾張富士(標高275m)とその南にそびえる本宮山(標高293m)の間には背比べ伝説が残っている。

尾張富士に鎮まる木花開耶姫命が「山の上に石を積んで本宮山より高くしたら望みを叶えよう」と村人に神託し、始まったのが石上げ祭とされる。

石を尾張富士の山中に運ぶ祭祀である。新しくとも天保7年(1836年)まで遡ることはできるが、それ以前の詳細は不明とされている。昭和・平成に入っても個人・企業の献石が続き、現在も毎年8月に催行されている。

登山道の両脇に無数の献石が置かれており、山頂にもうず高く石が積まれているからか、地理院地図上では標高275mながら山頂現地には2m高い標高277mの石碑が建てられている。

献石登拝道

献石の一例

山頂の献石。色のついた献石は麓の本社で授与されている。

人はなぜ石を積むのか(刻字の中の習俗)

山頂の尾張冨士大宮浅間神社奥宮

『愛知県無形民俗文化財指定記念 石上げ祭』記念冊子(2024年)によれば、献石は木曽川などで拾ってきたものを使う。

明治時代までは自然石のまま献じていたが、大正時代以降は石肌に「献石」の字を墨書きするようになり、やがて字を彫りこむことが一般的となった。


八百比丘尼の岩

山腹に「八百比丘尼の岩」が存在する。

八百比丘尼は人魚の肉を食べて800歳まで生きたと語られる尼であり、全国各地に同種の尼の伝説が広がる。

八百比丘尼が尾張富士に登ったとき、山腹のこの場所で突然手が岩に吸い付き、離れなくなった。その夜、海女が参籠していると木花開耶姫命が夢枕に立ち、本宮山より高く石を積むように尼に告げた。これが石上げ祭の起源とされる。


尾張富士がかつて女人禁制の山の神信仰であったことも示す。今も岩には、吸い付けられた時についたという八百比丘尼の手形が残っているといわれ、岩の下部に白ペンキでマークされている。

八百比丘尼の岩

手形の白ペンキ表示

逆側より撮影。奥に写るのは中宮。

今は献石の群れの中に埋もれるがごとくひっそりと佇むが、時系列で考えればこの岩が献石の第一号であるかのようでもあり、献石の形が立石状であるのも八百比丘尼の岩の形状から由来するのかもしれない。


カマ岩/鎌岩(釜岩社)

遠山正雄 「尾張地方のイハクラに就いて」(1933年)によると、尾張富士の山頂近くに、カマ岩(鎌岩)なるものがあるという。

俗には、木花開耶姫命が木賊(とくさ)を刈る時に使っていた左鎌が発見された場所と信じられており、一種の信仰を集めるとのことである。

しかしながら、今では尾張富士を取り上げる時にカマ岩に触れる人や話に出会うことはまったくない。岩石信仰の消失した情報の一例と言えよう。


麓の尾張冨士大宮浅間神社の社務所に神職さんがいらっしゃったのでカマ岩について伺ったが、ご自身は着任されて5年ほどとのことで詳細はわからないとのご回答だった。


そこで、本項でカマ岩の所在を推測してみたい。

遠山氏が残した記述をヒントにすれば、

  • 山のほとんど頂上に近い所の側面に位置する。
  • 元来は頂上というべきだった場所。
  • カマ岩を背にして里を俯瞰すると、木曽川を中心に尾張平野がよく見える。

とのことである。

つまり、ほぼ山頂のすぐ下に立地するとみて疑いない。


次に『尾張名所図会』に掲げられた尾張富士の絵図を見ると、山頂近くの9合目あたりの登山道沿いに「カマイハ社」の注記と共に一宇の祠が描かれている。

尾張冨士大宮浅間神社には境内末社の一つに「釜岩社」があり、これと同一と見てよい。釜岩は鎌岩に通じ、カマイハ社はこのカマ岩をまつる場に鎮座していたと考えるのが適切だろう。


では、実際に山中9合目あたり、山頂直下にそのような岩石はあるのか。

絵図が示すように、山頂の奥宮からやや下った登拝道沿いに、下写真の場所がある。


現在は多数の献石が立ち並ぶが、全体としてやや平場になっており、小祠を設けるスペースも十分ある。

献石の裏の斜面をよく見ると岩場が続いている。岩石の群れと形容もできるが、元は一つの岩肌からなっている。




岩場の最上部

この岩場を登りきると、そのすぐ上は自然に山頂奥宮に接続していた。

したがって遠山氏がいう「元来は頂上というべきだった」というのは、奥宮社殿ができる前はこの岩場が山頂として神聖な岩の上に登らず岩の下から仰ぎ見る「磐座」だったとの立場によるものであろう。

残念なことにカマ岩を背にしても樹林に遮られて麓の眺望は望めないが、これは近年全国的に山の手入れが追い付いていないことによるものであり、植林される前であれば麓を一望できる立地であることは想像に難くない。

宇佐美景堂「有史以前の信仰遺蹟を探る(五)」(1932年)においても、坂を上り詰めた所に大きな岩があってこれを鎌岩と呼び、山頂の奥社(奥宮)の参道は右折するが、鎌岩は幾箇にも割れて山頂までの間が全部岩であると記す。現地の状況はこの記述と合致する。


絵図からの位置関係、そして、周囲にこれ以上の規模の岩石が見当たらない点を踏まえて、私はこの場所がカマ岩だったと推定する。

カマ岩地点からの麓の眺望


尾張富士の南支峰

尾張富士から南に延びる小ピークがある(標高240mピーク)。

そこには下写真のような露岩群が見られたので併せて報告しておく。この支峰の山名や露岩の詳細などは情報収集不足である。

南支峰

ピーク頂上はケルン状に石が積み寄せられている。

尾張冨士遠望。上写真でいう右側に延びる尾根が南支峰のピーク。


参考文献

  • 遠山正雄 「尾張地方のイハクラに就いて」 『愛知教育』第551号(昭和8年11月号) 1933年
  • 尾張冨士大宮浅間神社 『愛知県無形民俗文化財指定記念 石上げ祭』記念冊子 2024年
  • 岡田啓 (文園) , 野口道直 (梅居) 著『尾張名所図会』後編巻6 丹羽郡,片野東四郎,明13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764892 (参照 2025-01-06)
  • 宇佐美景堂「有史以前の信仰遺蹟を探る(五)」『日本及日本人』(9月15日號)(257),政教社,1932-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1597192 (参照 2025-01-23)


2025年1月2日木曜日

金井神社の蛇石(三重県いなべ市)


三重県いなべ市員弁町北金井

 

「伊勢新聞」2024年12月28日記事(https://www.isenp.co.jp/2024/12/28/122275/)で、普段は本殿内にある蛇石が蛇年に合わせて2025年元日から1年間公開されると目にした。

報道にもあるとおり、蛇石には手で触ることができる。

宮司の方にお話を伺うこともでき、写真撮影の許可をいただいた。





蛇がとぐろを巻くような形だから、いつの頃からか蛇石の名で呼ばれた石だという。

自然にできた形とのことだが、私が目の当たりにして触ってみた実感は、縄文時代の石冠のような形をした石だという印象だった。ただし、底面がどのようになっていたかは持ち上げるのを遠慮して未確認である。


注意したいこととしては、金井神社は蛇神をまつる神社というわけではないので、たとえば神社のご神体などの位置づけではない。

金井神社は、地元の人々が伊勢神宮に代参する祈願社として承久3年(1221年)に創建したとの説がある。

境内社には金巖社と呼ばれる社が合祀されている。

「巖」の字から関係が気になるところだが、金巖は地名らしく、社の由来は地頭で現宮司家系でもある種村氏の祈願社だったとされている。


宮司さんがおっしゃるには、蛇石は由来不明ながらも、いつの頃からか拝殿と本殿の間の斎庭にずっと置かれていたのだという。神職家の間でも、これは何だろうという存在だったらしいが、畏れや恐さの対象ではなく愛着をもって置かれていた。

その後、平成に入って本殿を新たに造営した折に、斎庭にあったという蛇石を本殿の中に収めるようにして、以後は基本的に秘匿された。

しかし、それは祟りがあって隠されたという考えではなく、むしろ縁起の良い存在との認識だった。

そこで現在の宮司さんになられてから、蛇年に蛇石を公開する取り組みを始めたそうで、存じ上げなかったが12年前も公開していたらしい。

ということで、祟りではなくご利益のある石として撫でることも許され、現在では蛇の卵にあやかった「たまご石」も授与されている。