和歌山県東牟婁郡串本町
紀伊串本の沖から南に浮かぶ紀伊大島に向かって、橋脚(橋杭)のように立ち並ぶ岩の列。
橋杭岩 |
名称
海岸に最も近い岩。「峭立」か。 |
写真中央が一番高い「稲荷島」か。 |
伝説
(以上、日本放送協会編『日本伝説名彙』日本放送出版協会 1950年 より)
橋杭岩 |
海岸に最も近い岩。「峭立」か。 |
写真中央が一番高い「稲荷島」か。 |
葛飾立石の地名の由来となった岩石。
石の露頭が地上から少し顔を出すくらいの、小さな石である。
石が立つという名前負けしているように思えるが、『江戸名所図会』に描かれた立石の姿は、現在のものよりも高さがある(といっても高さ一尺と記されるので約30㎝)。
立石稲荷神社 |
なぜ小さくなったのかについては、長年の風化による説のほか、立石を打ち欠いて飲めば病が快癒するという一種の信仰習俗がかつてあって、その結果小さくなった可能性がある。
「立石」の地名はすでに、応永5年(1398年)の『下総国葛西御厨注文』に登場することから、少なくとも室町時代には立石が特別視された存在だったことが推測される。
江戸時代には、寒くなると石がどんどん欠けていくが、暖かくなると元の状態に戻る奇石として知られた。
文化2年(1805年)には地元の人々が、石の下はどうなってるのかと掘り進めたが石の根元は見えず、掘った人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで祠を設け、立石稲荷神社としてまつるようになったという。
南蔵院所蔵旧記から写したという『持高』文政6年(1823年)に立石稲荷大明神の記述があり、そこには「神体活蘇石」の名称で記される。
鳥居龍蔵博士はこの「活蘇石」の名称に注目し、活蘇とは石が生きているという信仰を伝える証左であり、巨石文化研究に傾注していたことから立石を低地帯には珍しい「メンヒル(巨石文化における立石の事例)」とみなした。
その後、大場磐雄博士は「磐座=盤石状」「石神=立石状」という構図に当てはめ、立石を石神事例の1つであると考えた。
全国の石神事例と比して珍しいと思う点は、元は珍奇・好奇・特別視の対象から始まっていて、それが崇りによって畏敬の対象に昇華し、その後、石を欠く習俗によって親近的な信仰に、人々の感情が波打つように変遷してきたところにある。
元来は畏敬の対象だったものが、時代を追うごとに畏れを減じて親近・好奇の対象に変わるという一直線的な変遷はままあるが、あたかもジェットコースターのように感情の起伏が激しい立石は独特である。
ちなみに、この立石の石種は千葉県安房郡南鋸町の鋸山周辺でしか採れない房州石という鑑定結果があり、近くには房州石を用いて石室を構築した古墳があることから、立石は古墳の石室石材だったのではないかという見方もある。
立石の地中をレーダー探査したところ空洞構造が検出されたことから、古墳が埋没しているのではないかともされている。
京成電鉄立石駅のホームには立石の説明板とレプリカが置いてあり、こちらも一見の価値がある。
参考文献
「大場磐雄博士写真資料」で公開されている岩石信仰に関する写真で、他で見られず資料性が高いと判断したものを、本ブログですでに紹介済の探訪記に追加しました。
後日、まだ本ブログで投稿してなかった葛飾の立石や、未訪ながら非公開で今後も写真撮影至難と思われる宇佐八幡の三つ石や長野の児玉石神事も本写真を利用して投稿予定です。
大場磐雄博士写真資料は、國學院大學デジタルミュージアムが公開するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのデータです。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、転載などの二次利用を著作権者が許諾した資料であり、大場磐雄博士写真資料もクレジット表記と非営利使用であることを条件に二次利用が許可されています。
今回、埋もれていた写真資料を再活用して、岩石信仰の記録としての資料価値を高められたことをありがたく思います。
町指定史跡。埋蔵文化財上の正式名称は坪平遺跡だが、「ドルメン類似遺跡」の通り名をもつ。
日本のドルメンといえば鳥居龍蔵博士ということで、鳥居が大正11年(1922年)に訪れて命名した。
ドルメン類似遺跡の石碑 |
現地に残る遺構 |
ドルメン=巨石というイメージだが、そんなに目立つものではない。
実際のところは縄文時代後期(BC.1800年前後)の配石墓(石棺墓)である。
遺骸や埋葬を確定させる痕跡は見つかっていないが、遺構に接して土器片や石棒片、人形にも見える十字形石器が伴出した。また、後年の追加発掘で土坑墓と思わしきものを3基検出しており、やはり一帯は墓域だった可能性が高い。
配石墓は約4mの間隔を置いて2基が検出され、両方とも南北5m×東西4mほどの規模に渡って石積みがなされていた。
石棺墓の一つ。小さい石の上に大きいめの石が載るのがわかる。 |
とはいえ、地表に蓋された大石を見ればドルメンになってしまうでは、中世の経塚も古墳の石室も登山のケルンも地質活動の岩陰も、地表に石で蓋されれば同質である。共通項が大きすぎるのである。岩石の単純な積み上げだけを以て世界共通の文化を夢想すること自体に無理があるだろう。
世界規模での巨石文化論が崩れた今、この遺跡にドルメンという言葉を付けるのは不適切だが、考古学史上において「鳥居龍蔵ドルメン時代」の調査遺跡ということが名称からすぐわかるのは良いところである。
なお、ドルメンの別名として「支石墓」を用いる向きがあるが、現在の考古学における支石墓は基本的に弥生時代の墓制に限定された用語として通っているので、縄文時代である本遺跡に当てはめるのは適切とは言えない。
桃太郎発祥の地とされている鬼無町では、熊野権現を「桃太郎神社」として登記し、境内の神石は桃太郎たちの墓として生れかわった。
(読売新聞社社会部編『わたくしたちの伝説』1959年)
神社から五百メートルほどの奥の桃山は桃太郎が最後に姿をかくしたところと伝えられ、太古からこの山をご神体として仰いできた。その麓にある磐座は祭祀が行なわれた場所である。現在はメンヒルと呼んでいるが、こうした遺跡は山をご神体とした最も古い信仰の起源を物語るものであると云われている。
(桃太郎神社発行「犬山桃太郎神社解説之図」由緒書)
犬山桃太郎伝説の詳細は別項に譲るが、桃山の麓にはメンヒルと呼ばれるものがあると記される。
現地を訪れると、桃山の麓に栗栖神社があり、川沿いに東へ道が続いている。
すぐ左右に二股分岐するが、山側の左は桃山を登るルートで「ミラマチロード in 栗栖」の看板が建つ。そちらではなく標示のない川沿いの右の道を進むとすぐにメンヒルと山神碑がある。
桃山 |
「メンヒル」 |
裏の地山は削平されたような傾斜を見せる。 |
メンヒル(左)と山神碑(右) |
高さ1mほどの岩塊に、楕円形の礫が取り囲むような構造であり、周囲の礫は明らかに整形されているが旧状はどのようなものだったのか。
犬山日本一桃太郎会のnote記事によると、昭和4年(1929年)4月16日付の新愛知新聞で「栗栖村にメンヒル発見」の見出し記事が紹介されている。
犬山附近武陵桃源の栗栖村を訪ひ昨年発見したストンサークルを調査したした。(鳥居龍蔵「尾張の旅より」1929年。原文ママ)
いわゆる「鳥居さんのドルメン」(鳥居さんは巨石を見れば何でも巨石文化のドルメン・メンヒル・ストーンサークルと呼ぶ)と揶揄された案件の一例であり、桃太郎神社の地ということもあいまってキワモノのような扱いを受けそうだが、桃太郎神社のスタートはゼロからの虚構ではなく元ネタがあり、かつては子守神社の名で呼ばれていたという。
桃太郎神社として観光地化される前の桃山の信仰について記された文献が残っており以下引用する。
桃の山の下に、古来子供の守り神がまつられて、毎年紅葉の色付きて山を彩る頃の十一月七日が祭典であって前日六日の夜から村の子供達はこの祠の前で、徹夜して御馳走を煮て食べたり、踊り廻ったりするやさしい風習がある。もし子供が夜泣きしたり病気のときは、子供と同じ位の、身丈の幣を捧げてお祈りをすると、たちまち平癒すると云ふので、村人は篤く信仰して居る。本年(吉川注:1929年)四月十二日、此の子供の神様は桃太郎神社と改稱せられ、引續き、犬山町に於て、東西の御伽噺の大家を召し盛大なる桃太郎祭を取り行ふて、大いに氣勢を上げた。
(愛知出張所「わしが部内(其の一)」1929年)
桃太郎神社と名前を変えられる前の、夜泣き止め信仰などの子供の守り神としての桃山(桃の山)の姿が浮かび上がるようである。
桃の山といふに、古来桃太郎神社が祀られてあったが、不便な場所なので、昭和五年に日本ラインに近き、桃太郎屋敷の所に移転した。
(藤原鎌兄『健勝地高日本』1939年)
メンヒル発見と合わせて、1929~1930年にかけて急速に当地が「桃太郎」と「巨石文化論」の外部影響を受けて観光地化していく流れが垣間見られる。
桃山自体の桃信仰は江戸中期まで遡れる。
古来、栗栖郷桃の山山麓に鎮座と記録にあるが、この神社の昔の棟札には、寛延二年(一七四九)と寛政十二年(一七四八―)のものとがあり、寛政六年に書かれた奈良絵本の『御巻物桃太郎』、『桃太郎一代記』などがある。昔は「桃の神」と棟札に書しており、古事記に明記されている桃の精霊「意富加牟豆美命」(オオカムヅミノミコト)を、子供の守護神として奉斎したものである。
(中谷一正『日本説話文学の研究』1982年)
この当時、桃の神の祠の隣で「発掘」前の岩石群がどのようなものであったかは最早知る由もないが、江戸時代における桃太郎伝説の信仰地として、そして、「メンヒル/ストーンサークル」と呼ばれた一種の「近代遺産」としての歴史的評価はあらためて見直されて良いだろう。
栗栖神社元宮跡。現・栗栖神社の約500m南にあり、大正12年(1923年)に現在地へ遷座したという。桃の神の近くに遷座しにきたということになる。 |
参考文献
尾張富士(標高275m)とその南にそびえる本宮山(標高293m)の間には背比べ伝説が残っている。
尾張富士に鎮まる木花開耶姫命が「山の上に石を積んで本宮山より高くしたら望みを叶えよう」と村人に神託し、始まったのが石上げ祭とされる。
石を尾張富士の山中に運ぶ祭祀である。新しくとも天保7年(1836年)まで遡ることはできるが、それ以前の詳細は不明とされている。昭和・平成に入っても個人・企業の献石が続き、現在も毎年8月に催行されている。
登山道の両脇に無数の献石が置かれており、山頂にもうず高く石が積まれているからか、地理院地図上では標高275mながら山頂現地には2m高い標高277mの石碑が建てられている。
献石登拝道 |
献石の一例 |
山頂の献石。色のついた献石は麓の本社で授与されている。 |
人はなぜ石を積むのか(刻字の中の習俗) |
山頂の尾張冨士大宮浅間神社奥宮 |
『愛知県無形民俗文化財指定記念 石上げ祭』記念冊子(2024年)によれば、献石は木曽川などで拾ってきたものを使う。
明治時代までは自然石のまま献じていたが、大正時代以降は石肌に「献石」の字を墨書きするようになり、やがて字を彫りこむことが一般的となった。
山腹に「八百比丘尼の岩」が存在する。
八百比丘尼は人魚の肉を食べて800歳まで生きたと語られる尼であり、全国各地に同種の尼の伝説が広がる。
八百比丘尼が尾張富士に登ったとき、山腹のこの場所で突然手が岩に吸い付き、離れなくなった。その夜、海女が参籠していると木花開耶姫命が夢枕に立ち、本宮山より高く石を積むように尼に告げた。これが石上げ祭の起源とされる。
尾張富士がかつて女人禁制の山の神信仰であったことも示す。今も岩には、吸い付けられた時についたという八百比丘尼の手形が残っているといわれ、岩の下部に白ペンキでマークされている。
八百比丘尼の岩 |
手形の白ペンキ表示 |
逆側より撮影。奥に写るのは中宮。 |
今は献石の群れの中に埋もれるがごとくひっそりと佇むが、時系列で考えればこの岩が献石の第一号であるかのようでもあり、献石の形が立石状であるのも八百比丘尼の岩の形状から由来するのかもしれない。
遠山正雄 「尾張地方のイハクラに就いて」(1933年)によると、尾張富士の山頂近くに、カマ岩(鎌岩)なるものがあるという。
俗には、木花開耶姫命が木賊(とくさ)を刈る時に使っていた左鎌が発見された場所と信じられており、一種の信仰を集めるとのことである。
しかしながら、今では尾張富士を取り上げる時にカマ岩に触れる人や話に出会うことはまったくない。岩石信仰の消失した情報の一例と言えよう。
麓の尾張冨士大宮浅間神社の社務所に神職さんがいらっしゃったのでカマ岩について伺ったが、ご自身は着任されて5年ほどとのことで詳細はわからないとのご回答だった。
そこで、本項でカマ岩の所在を推測してみたい。
遠山氏が残した記述をヒントにすれば、
とのことである。
つまり、ほぼ山頂のすぐ下に立地するとみて疑いない。
次に『尾張名所図会』に掲げられた尾張富士の絵図を見ると、山頂近くの9合目あたりの登山道沿いに「カマイハ社」の注記と共に一宇の祠が描かれている。
尾張冨士大宮浅間神社には境内末社の一つに「釜岩社」があり、これと同一と見てよい。釜岩は鎌岩に通じ、カマイハ社はこのカマ岩をまつる場に鎮座していたと考えるのが適切だろう。
では、実際に山中9合目あたり、山頂直下にそのような岩石はあるのか。
絵図が示すように、山頂の奥宮からやや下った登拝道沿いに、下写真の場所がある。
現在は多数の献石が立ち並ぶが、全体としてやや平場になっており、小祠を設けるスペースも十分ある。
献石の裏の斜面をよく見ると岩場が続いている。岩石の群れと形容もできるが、元は一つの岩肌からなっている。
岩場の最上部 |
この岩場を登りきると、そのすぐ上は自然に山頂奥宮に接続していた。
したがって遠山氏がいう「元来は頂上というべきだった」というのは、奥宮社殿ができる前はこの岩場が山頂として神聖な岩の上に登らず岩の下から仰ぎ見る「磐座」だったとの立場によるものであろう。
残念なことにカマ岩を背にしても樹林に遮られて麓の眺望は望めないが、これは近年全国的に山の手入れが追い付いていないことによるものであり、植林される前であれば麓を一望できる立地であることは想像に難くない。
宇佐美景堂「有史以前の信仰遺蹟を探る(五)」(1932年)においても、坂を上り詰めた所に大きな岩があってこれを鎌岩と呼び、山頂の奥社(奥宮)の参道は右折するが、鎌岩は幾箇にも割れて山頂までの間が全部岩であると記す。現地の状況はこの記述と合致する。
絵図からの位置関係、そして、周囲にこれ以上の規模の岩石が見当たらない点を踏まえて、私はこの場所がカマ岩だったと推定する。
カマ岩地点からの麓の眺望 |
尾張富士から南に延びる小ピークがある(標高240mピーク)。
そこには下写真のような露岩群が見られたので併せて報告しておく。この支峰の山名や露岩の詳細などは情報収集不足である。
南支峰 |
ピーク頂上はケルン状に石が積み寄せられている。 |
尾張冨士遠望。上写真でいう右側に延びる尾根が南支峰のピーク。 |
参考文献
「伊勢新聞」2024年12月28日記事(https://www.isenp.co.jp/2024/12/28/122275/)で、普段は本殿内にある蛇石が蛇年に合わせて2025年元日から1年間公開されると目にした。
報道にもあるとおり、蛇石には手で触ることができる。
宮司の方にお話を伺うこともでき、写真撮影の許可をいただいた。
蛇がとぐろを巻くような形だから、いつの頃からか蛇石の名で呼ばれた石だという。
自然にできた形とのことだが、私が目の当たりにして触ってみた実感は、縄文時代の石冠のような形をした石だという印象だった。ただし、底面がどのようになっていたかは持ち上げるのを遠慮して未確認である。
注意したいこととしては、金井神社は蛇神をまつる神社というわけではないので、たとえば神社のご神体などの位置づけではない。
金井神社は、地元の人々が伊勢神宮に代参する祈願社として承久3年(1221年)に創建したとの説がある。
境内社には金巖社と呼ばれる社が合祀されている。
「巖」の字から関係が気になるところだが、金巖は地名らしく、社の由来は地頭で現宮司家系でもある種村氏の祈願社だったとされている。
宮司さんがおっしゃるには、蛇石は由来不明ながらも、いつの頃からか拝殿と本殿の間の斎庭にずっと置かれていたのだという。神職家の間でも、これは何だろうという存在だったらしいが、畏れや恐さの対象ではなく愛着をもって置かれていた。
その後、平成に入って本殿を新たに造営した折に、斎庭にあったという蛇石を本殿の中に収めるようにして、以後は基本的に秘匿された。
しかし、それは祟りがあって隠されたという考えではなく、むしろ縁起の良い存在との認識だった。
そこで現在の宮司さんになられてから、蛇年に蛇石を公開する取り組みを始めたそうで、存じ上げなかったが12年前も公開していたらしい。
ということで、祟りではなくご利益のある石として撫でることも許され、現在では蛇の卵にあやかった「たまご石」も授与されている。